〔自由〕
2014年10月12日(日)
「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ8:32)
真理が、独特な姿でわれわれに近づいてくる。光り輝く近よりがたい栄光に包まれてではなく、十字架につけられた真理として、十字架につけられたキリストとして、真理がわれわれに近づく。そして真理は、われわれに向かって語りかける。「私を、すなわち真理を、十字架につけたのは誰だ」と。そして真理は、その同じ瞬間に答えを出す。「見よ、私を十字架につけたのは、あなただ。あなたが、自分の思いと異なる神の真理を憎んだ。あなたが真理を十字架につけたのだ。そしてあなたは、自分で別の真理を造りあげ、その真理を自分のものとし、その真理を宣べ伝えることができると考えた。-そのことによって、あなたは、僭越にも自らが神であると宣言し、そのために挫折してしまったのだ」。
・・・
「自由になる」ということが、「この世で偉大な者になる」とか、「兄弟に対して自由になる」とか、「神に対して自由になる」ということではないからである。そうではなく、むしろ、「自分自身から自由になる」ということ、自分ひとりがこの世の中に存在しており、自分ひとりが世界の中心であるかのように生きる虚偽から自由になること、神の創造を破壊する憎悪から自由になること、他の人々のために自分自身から自由になることを意味するからである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、506ff。
真理が、私を自由にしてくれる、ということばは、嘘をついていると不自由だが、嘘ではなく本当を語るとそこに自由が生まれる、という意味だと思っていました。だから嘘をついてはいけない、と。
しかしこの真理というのは、イエスさまご自身を指していて、イエスさまご自身が、私の心の中にやって来てくださる時、自由になることができるということのようです。
権力、富、美しさが人間を自由にするのではありません。それらは、一見自由にするようですが、ますます不自由の中に落ちこませるものです。
隣人や、神さまご自身から自由になることが、自由を得させるようですが、それも逆のようです。
ただ自分自身から、自己中心から自由になることによってのみ、人間は真の自由に生きることができるのです。
その自由は、十字架にかかられたイエスさまだけがもたらして下さるものです。
もっとも不自由な姿である十字架のイエスさまだけが、私たちの本当の自由をもたらして下さるのです。
(祈り)
神さま、十字架の主を見上げさせてください。
コメントを残す