〔交わりと孤独〕
2014年8月12日(火)
交わりのしるしが「言葉」であるとするならば、孤独のしるしは「沈黙」である。言葉と沈黙は、ちょうど「交わり」と「孤独(ひとりでいること)」の関係のように、深い関連があり、しかも明確に区別されるものなのである。一方なしに、他方はありえない。正しい言葉は沈黙から出てくるのであり、正しい沈黙は言葉から出てくるのである。
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本当の「言葉」が饒舌とは異なるように、「沈黙」は無口とは異なる。饒舌は交わりを生み出しはしないし、無口は孤独を生み出しはしない。
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交わりを新しく基礎づけ、人々を互いに結び合わせる言葉は、沈黙をともなった言葉である。
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み言葉は、騒がしい者にではなく、沈黙している者に来るのだからである。「宮」の静けさは、聖なる神が、神の言葉の中に現れることのしるしである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、399頁f。
礼拝に前奏黙祷があります。黙祷は黙って祈るということです。
しかしこの祈りは、私が語る、ということではなく、私が黙る、ということにおいて為される祈りです。
ですから沈黙の祈りということができます。
この沈黙の備えの中に、神のことばを聞く備えがなされ、また正しい言葉を語る備えがなされます。
日々の生活の中にもこの、沈黙の祈り、が必要です。
(祈り)
神さま、饒舌を赦して下さい。あなたのまえに沈黙を得させてください。
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