信仰に至るための十分な記述

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〔復活〕

2014年4月13日(日)

「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、またそう信じて、イエスの名によっていのちを得るようになるためである。」(ヨハネ20章31節)

彼らはイエスを信じたということによって、イエスを「主」とした。彼らは、見たイエスではなくて、信じたイエス、すなわち何らかの地上的なものとしてのイエスではなく、神の子キリストとしてのイエスに、みずからのいのちの基を置いたのである。そしてその方の名によって永遠のいのちを得たのである。ところで、われわれにもまた、言葉とサクラメントが与えられている。これはまさに、われわれが、「見る」ことによってではなく、「信じる」ことによってさいわいな者とさせられるためなのである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、185頁ff。

聖書が書かれた目的は、それを読むものがイエスさまを信じるため、イエスさまを主と仰ぎ見ることです。その一点のために書かれました。
それは、ボンヘッファーは、見ることによってではなく信じることによってイエスさまを主と仰ぎ見るためである、と語ります。
信じること。それによってイエスさまを主と仰ぎ見るのです。
信じること。それによってさいわいな者とさせられるのです。

(祈り)
神さま、信じる者とならせてください。み言葉によって。

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