〔服従と十字架〕
2014年3月1日(土)
苦しみは、それが負われることなしには、過ぎ去らない。ところで、苦しみを負うことができるのは、この世か、あるいはキリストかのどちらかである。もしこの世が苦しみを負うなら、この苦しみはさらに増し、人間を破壊へと追いやることになるであろう。しかし、もしこの苦しみがキリストに襲いかかるなら、この苦しみは克服されるであろう。
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神は重荷を負う神である。
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キリストのくびきを負う時、われわれはキリストが自分の近くにいて、彼との交わりにあずかることができるという確信を与えられる。イエスに従う者は、自分の十字架を負う時に、必ずイエスを見いだす。イエス自身がそういう方なのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、107頁f。
どの人生にも重荷はあります。生きるということがそもそも重荷を負うということなのかもしれません。できれば主には避けたいものです。しかしそれを避けていてはいつまでたっても過ぎ去りません。重荷はそれを担うことによって克服され過ぎ去っていくのです。
重荷を担う時、自分で、あるいはこの世の知恵でになってはいけません。イエスさまが担ってくださることを信じて担わなければなりません。イエスさまは十字架の上ですべての重荷を負うまことの神さまの姿を見せてくださいました。イエスさまは私たちのすべての重荷をになってくださる神さまです。
重荷を担おうとするとき、そこにイエスさまを見出すことができます。重荷を担う時、イエスさまと親しい交わりが与えられます。
(祈り)
神さま、重荷を負うことを学ばせてください。そうしてあなたとの豊かな交わりの中に歩ませてください。
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