十字架はイエス・キリストとの交わりの中に初めから存在する

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〔服従と十字架〕

2014年2月28日(金)

一人一人がキリストと共に経験しなければならない苦しみは、まず最初に、この世の様々な束縛から抜け出るようにという招きによってもたらされる。それは、イエス・キリストに出会って、古い人が死ぬことである。服従への歩みに足を踏み入れる者は、イエスの死に自分をゆだねる。
・・・
こうして、キリスト者は肉とこの世からさまざまな試みを受けつつ、イエス・キリストのために新しい苦しみを負いつつ、日々の歩みを続けていくことになる。そこで受ける傷は、すなわちキリスト者がこの世との戦いの中で受ける傷は、イエスと共に十字架を負うことの生きたしるしとなるであろう。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、103頁ff。

イエスさまを信じるということは、すでにそこに自分の十字架を負うということが存在しています。自分の十字架を負うということを避けて、イエスさまを信じるということはありえません。いくらイエスさまを信じているといっても、自分の十字架を負うことをしないならば、それは信じていることではありません。
そこで自分の十字架を負うということは「この世の様々な束縛から抜け出るようにという招きによってもたらされる」のです。この世の様々な束縛から抜け出ることは、それ自体十字架を負うことなのです。この場合「この世」とは従来の私に敵対するものというよりも、自分自身のこだわり、自己中心といったことを含んでいます。
自己中心から、神さま中心に生きること。それはすでに自分の十字架を負うことなのです。

この自分の十字架を負うことにおいて私たちは傷を受けます。しかしそれはイエスさまと共に十字架を負うことの生きたしるしとなるとボンヘッファーは語ります。

(祈り)
神さま、すでに与えられている自分の十字架を誠実に負うことを得させてください。

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