他者の前でありのままであること

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〔人間とは何か〕
2014年2月22日(土)
「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2章25節)

「恥ずかしい」と思うようになるのは、相手をもはや神の賜物としてありのままに受け入れようとしない時である。あるいは相手のありのままの姿に満足できずに相手に無理なことを要求する時であり、また、相手に対して<私と結びつくことで不満を感じているのではないか、それゆえ私に無理なことを要求してくるのではないか>と思う時である。恥とは、私と相手の悪のゆえに、すなわちわれわれの間に入ってきた分裂のゆえに、私自身を相手の前で隠すということである。一方が他方を、神が与えた助け手として受け入れるところでは、人間は恥じることがない。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、93頁f。

相手を神さまが与えてくださった助け手として受け入れること。その場合助け手とは昨日の箇所のように、自分を制限してくれる大切な助け手として受け入れることをもお含めて、そのように受け入れること。それは愛することだと思います。そうしてこそ豊かな関係の中に生きることができます。過度な要求をすることから守られるのです。
そこでは自らの弱さも恥じることなくありのままに生きることができます。平安な人間関係に生きることができます。

(祈り)
神さま、家族を友人を、さまざまな人間関係を感謝します。あなたが与えてくださった助け手たちです。お互いにありのままに受け入れることができるように。そうして豊かな関わりの中に生きることができるように導いてください。

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