ある正しい事柄のために苦しみを受ける

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2014年1月23日(木)
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」(マタイ5:10)

イエスは、たとえ彼のみ名を告白することにつながらなくても、正しいことのために苦しむ者を受け入れる。イエスは、彼らをも、みずからの保護、責任、要求の中に入れる。こうして正しいことのために迫害される人は、苦しみを受け責任を負う時に、キリストのもとへと導かれ、キリストに訴え、みずからをキリスト者と告白することになる。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、40頁f。

義、すなわち正しいことを追い求める人はキリスト者だけに限りません。この世界にはキリスト者でなくても正しいことを追い求めている人はたくさんおられます。聖書の神さまは、そのような人々をもご自身の祝福のみ手の中で導いてくださいます。そうしてキリスト者と告白することとなるまでに導いてくださいます。キリスト者はこの世界にあって正しさを求める人々と共に歩まなければなりません。

それとともにこの言葉は、この世にあってキリスト者ではないけれども、正しさを求めている人々は、本人の自覚は別として、すでにキリストへと導かれ、キリストに訴え、みずからをキリスト者と告白することになる、ということかもしれません。
そうであれば、なおさらこの世にあって正しさを求める人々と共に歩まなければなりません。

それはそうとして、どんなに小さなことであったとしても正しさを求める者でありたいと思います。正しさを求めることによって、非難されたり困った立場に追いやられることがあっても神さまは共にいて味方となっていて下さいます。
神さまが共にいてくださり、神さまが味方であることこそ幸いなのです。

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