キリスト者の自由は聖性に関するどのようなものからも自由であるというものです。これは、私たちが業によってではなく恵みの契約の下にいるということ、律法の業なしに信仰によって救われることを非常に曲解することになります。
ローマの信徒への手紙3章31節
2013年8月25日(日)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
254頁
聖なることに関して自由であるということは、曲解であると語ります。
「曲解」とは「相手の言動・心中を、素直でなくわざと曲げて解釈すること」です。
「誤解」という言葉がありますが、それは「意味をとり違えること。間違った理解をすること。思い違い」ですから、悪意はあまり感じません。
曲解のほうには少なからず悪意を感じます。罪を感じます。
人間は誤解ではなく、曲解をするものなのです。人間が誤解という言葉を使っているときも、もしかしたらそこには少なからず悪意や罪が含まれていて、本当は曲解をしているときがあるのかもしれません。
曲解するには何らかの心のありようが働いています。ですから曲解するには何らかの心のありようが現れているのです。
人間が曲解するときには、そこにその人の心のありようが現れているのです。その人を知る手がかりになります。
また自分自身を知る手がかりになります。
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