聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるため

静まりの時

  • テーマ:たがいに徳を高める
  • 聖書箇所:ローマ15・1~6
  • 日付:2026年06月24日(水)

1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。
2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。
3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、
 「あなたを嘲る者たちの嘲りが、
 わたしに降りかかった」
と書いてあるとおりです。

「力のない人たちの弱さ」。

14章で「 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません」(1,2節)と書かれているように、信仰の弱い人とは、この場合、野菜しか食べないとしている人たちのことです。逆に信仰の強い人は、何を食べてもよいと信じている人です。

なぜ野菜しか食べないとしているのか。それは肉が偶像にささげられたものだからです。偶像とは一切かかわらないと心に決めているので、野菜しか食べません。そういう信仰の人をパウロは、信仰の弱い人と呼んでいます。

ではそういう信仰の弱い人とどのようにお付き合いをしていくのか。パウロは、そういう人の弱さを担いなさい、と語ります。

私たちはキリストによって贖われ自由にされたのだから何でも食べてもよい、とされたのですが、それは時に人間を傲慢にします。野菜しか食べないという人を見下します。そうして何をしているのか。自分を喜ばせているのです。

パウロは、自分を喜ばせないで、信仰の弱い人たちのその弱さを担いましょう、と語りました。

キリスト者となる、ということは、どこか自分を喜ばせないで隣人を喜ばせる者となるということです。

4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

かつて書かれたもの。この場合旧約聖書のことだと思いますが、つづいて「聖書が与える忍耐と励ましによって・・・」と続きますから、すでに聖書という言葉に、新約聖書を予感します。

聖書は、私たちを教えるために書かれたのですが、聖書に教えられるということは、忍耐と励ましを与えられるということです。聖書を学んではいるけれども、忍耐と励ましを与えられない、とすれば、それは聖書をほんとうには学んでいない、ということかもしれません。

忍耐と励ましが与えられる、ということには、目的があります。それは、希望を持ち続ける、ということです。希望につながらない忍耐と励ましは、単なる我慢と気やすめです。私たち主にある者は、確かな希望に生きています。その希望につながる忍耐と励ましを聖書から与えられているのです。

忍耐と励ましに、そうして希望に生きる者は、互いに同じ思いを抱くようにと招かれています。

キリスト・イエスにふさわしく、とは、他の訳では、「キリスト・イエスに倣って」。イエスさまも互いに同じ思いを抱くお方であった、ということかもしれません。あるいは、イエスさまに倣う者は、互いに同じ思いを抱くはずである、ということかもしれません。

キリスト教信仰に生きる者は、互いの弱さを受け入れあいながら一つになる道に生きる者である、ということです。

パウロは、他の手紙の中でもしばしば語っていますが、教会に集う者たちが一つになることを願っていました。それがキリスト者であるということの証しである、とも取れます。

キリスト教会の歴史を見ても、小さな地方教会を見ても、分裂がないわけではありません。教会が東西に分裂したことも、プロテスタント教会が生まれたこともその一つであると思います。

政治的な状況の中での分裂、信仰的な純粋を追求する中での分裂。当事者にとってはいずれもどうすることもできないことですが、歴史を学ぶと分裂に至った経緯を少し学ぶことができるのだと思います。

分裂は心痛いことですが、当事者たちの痛みを想像しつつ、善意の第三者にはならないでおきたいと思います。忍耐と励ましの神を見上げ続けたいと思います。キリストに倣う者でありたいと思います。