だれが主の山に登り得るのか

静まりの時

  • テーマ:神の家
  • 聖書箇所:詩篇24・1~10
  • 日付:2026年06月15日(月)

3 だれが主の山に登り得るのか。
 だれが 聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく 心の澄んだ人
 そのたましいをむなしいものに向けず
 偽りの誓いをしない人。
5 その人は主から祝福を受け
 自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。
 神を求める者たち
 あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ

「これこそヤコブの一族」。ヤコブの一族、すなわち神の民イスラエルとは、主の山に登り得る者たちの群れであると詩篇は語ります。神の民イスラエルとは、国家でも民族でもなく信仰共同体であると聖書は語ります。

では、主の山に登り得る者とは、いかなる者であるのか。

  • 手がきよく、心の澄んだ人
  • そのたましいをむなしいものにむけず、偽りの誓いをしない人

手がきよい、とは、手が罪に染まっていない人。心の澄んだ人、とは、心のきよい人。

主は、心のきよい者は神を見る、と主は言われました。リュティは、「神を見るということは、私たちが自分たちの過去を感謝して振り返る一つのあり方なのです」とその説教集の中で語っています。

過去を振り返って感謝できない、とすれば、心が曇っているのです。罪を犯さない人はだれもいません。過去を振り返るならば、いたるところに汚点があり、後悔が生まれます。しかしその一つひとつも神さまがおゆるしになられたことです。神さまをすべてをご存じの上で、その一つひとつを私の人生にお与えになられました。神さまは愛です。私が後悔する一つひとつにも、神さまの深い愛とご配慮があったはずです。すべての意味が解明できるわけではありません。しかしもうくよくよすることを止めにして、感謝をささげたいと思います。

自分のたましいをむなしいもの、すなわちからっぽのものにむけない。常に満たされているもの、すなわち神さまに目を向ける。それは、偽りの誓いをせずにはいられない私たちの虚しい生き方から、私たちを解放します。

偽りの誓い。使徒ペテロは、十字架を前にしたキリストに、自分は決してキリストを裏切らないと断言しました。しかしその舌の根の乾かないうちに三度イエスを知らないと言い張りました。自分は決してキリストを裏切らない、というのも偽りの誓いですが、自分はイエスなど知らない、ということばも偽りでした。偽りのことばを語ってしまうペテロは、私と決して遠くはありません。

しかし主はそんなペテロをすべてご存じでした。ご存じの上でゆるし、さらに宣教に遣わされます。ペテロは自分の足りなさを見せつけられましたが、その目を主に向けました。主が語られたおことばに心を向けました。そうして新しく出発したのです。

むなしいもの。それは自分自身かもしれません。自分に向けていた目を、主に向ける。それが信仰の民です。それがヤコブの一族、新しいイスラエルの民、教会です。主をまっすぐに見上げる。そうして偽りの誓いをせずにはいられない自分自身から自由になり、真実のことばを語る者になりましょう。