しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください

静まりの時

  • テーマ:決断
  • 聖書箇所:ダニエル3・13~18
  • 日付:2026年06月10日(水)

18 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」

かつて異教の預言者たちとの信仰の戦いにおいて、主の預言者エリアは、神さまの圧倒的なお力を示し、その信仰の戦いを立派に勝利しました。

それから数百年の時を経て、このダニエル書においても信仰の戦いは起こりました。主を信じる3人の若者たちは、偶像礼拝を強要しようとする王を前に、主への信仰を立派に表明しました。

「たとえそうでなくても」。この言葉をテーマにした小説や映画が制作されました。ずいぶん昔になりますが感動したことを覚えています。

この「たとえそうでなくても」という聖句が語っているのは、主のみを礼拝する理由が、異教の神々とまことの神とのを比較して、まことの神のほうがしっかりと要求を聞いてくださるからである、とか、力が強いからだ、ということからではないことを示しています。

もちろん、まことの神さまの方が力も強いし、なによりも全能です。しかし、そうだからこの神さまを信じているというのであれば、たとえそうでなくても、という言葉はでてきません。たとえそうでなくても、すなわち、火の中から救ってくださらなかったとしても信じると告白しているのです。救ってくださるということがなかったとしても、信じる意味を見失わないと告白しているのです。

もし、そうでなかったら信じない、というのであれば、それは、まことの神さまを信じているようで、結局偶像的に信じているだけなのだと思います。

信じるということを愛すると置き換えてもよいかもしれません。私たちは愛する人を、自分の要求にこたえてくれるから愛しているのだろうか。それとも、たとえそうでなくても、愛しているのだろうか。愛そうとしているのだろうか。もし、自分を愛してくれるから、自分の要求を聞いてくれるから、愛している、というのであれば、それは愛していないことなのです。