貧しい民衆のほかは残されなかった

静まりの時 第2列王記24・10~17
日付:2023年01月31日(火)

14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。
16 バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。
(第2列王記24・14~16)

 バビロン捕囚において、バビロンに連行されたのは、「すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶」「王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々」「すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たち」でした。連れて行かれたのは、いわゆる有用な人材でした。
 いっぽうイスラエルには「貧しい民衆のほかは残されなかった」。つまり、残された人たちは、有用でない、人たちでした。あるいはそのようにレッテルを貼られてしまった人たちでした。
 捕囚の目的は、捕虜たちを自国で奴隷として利用するということでしょう。有用でない者を連れて行ったところでどうしようもありません。自分の国で役に立つ者たちだけがバビロンに連れて行かれたのです。捕囚は、祖国を失う、という苦しみに加えて、民族が分断されていく、という苦しみをイスラエルにもたらすことになりました。

 私たちは人の価値をはるでしょうか。はかるとすればどのようにしてはかるでしょう。あるいは、はかる、ということ自体してもよいものなのでしょうか。連れて行かれた人びとの苦しみもさることながら、残された人びとの苦しみはどれほどだったでしょう。自分たちは価値のないものなのだ、敵国に連れて行かれることさえしてもらえない無価値なものなのだと、彼らは苦しんだのではないでしょうか。

 このようなイスラエルに、イザヤ書の言葉は語られました。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。
 だから、わたしは人をあなたの代わりにし、
 国民をあなたのいのちの代わりにする。
 恐れるな。
 わたしがあなたとともにいるからだ。」
(イザヤ43・4,5)

 捕囚に連れて行かれる人びとにとって大きな慰めと励ましであったとともに、捕囚に漏れて、荒廃したイスラエルに残された人びとにとっても大きな励ましと支えの言葉だったのだと思います。

 私たちが、もし捕囚の時にその場にいたならば、連れて行かれた人たちのグループの入っていたでしょうか。それとも残された人たちのグループだったでしょうか。

 イエスさまは山上の説教で語って下さいました。

「心の貧しい者は幸いです。
 天の御国はその人たちのものだからです。」
(マタイ5・3)

 そしてパウロは語りました。

「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」
(第1コリント1・26~28)

「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
(第2コリント12・9)

 キリスト者は自らの弱さを誇ることが出来るようにしていただいた者たちです。安心して自らの弱さの中に「誇り」をもって生きることが出来るようにしていただいたのです。イエスさまがともにいて下さいますから。

 昨日は滋賀超教派牧師会が、オンラインで行われました。初参加の先生も加えられ、礼拝にはじまり、各種報告があり、近況を報告し合い、祈りの時を持ちました。滋賀における宣教の前進のためにともに祈りました。