静まりの時 第2列王記24・1~4
日付:2023年01月30日(月)
1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。
2 そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
3 実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、
4 また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。
(第2列王記24・1~4)
バビロン捕囚は、ユダヤの国がバビロンの国に侵略され滅ぼされてしまい、ユダヤの人びとがバビロンの国に捕囚された、という出来事です。捕囚というのは、囚人として捕らえられる、ということだと思いますが、捕らえられた先に待っている過酷な運命を想像します。神の国イスラエルにとって、異教の国バビロンでの虐げられた生活は、肉体的にも精神的にもつらいことだったことでしょう。この国家的な危機を、列王記は、「主の命によること」である、と語りました。
「主は赦そうとはされなかった」。
人間が犯した罪を赦そうとされない、それが聖書に記されている神の在り方である、と旧約聖書・列王記は語ります。この、義である神、を私たちは信じているであろうか。それが今朝の問いかけなのだと思います。
神の義に反したイスラエル。イスラエルが犯した罪とは何か。「咎のない者の血」のためである、と聖書は語ります。政治的、宗教的な不正、不義が行なわれていた、ということでしょう。それが国家権力の中で行われていた、ということかもしれません。そしてその罪の根底にあるのが偶像礼拝、すなわち人間の傲慢による神さまへの不信、だったのでしょう。口先では神さまの栄光を求めてはいるのです。しかしその心にあるのは、自らを主人とする高慢だったのだと思います。これはこの時代のイスラエルの問題だけではなく、今を生きる私たちの問題でもあるのだと思います。
聖書の神さまは、この罪、咎を決してお赦しにはなりません。それが聖書の神さまの在り方なのです。
ところがその義である神さまが「赦し」を実現するために、御子イエスさまをこの地に遣わしてくださいました。十字架と復活の御業を為して赦しの道をひらいてくださいました。御子イエスさまを信じる者はすべて赦しにあずかることができるようにして下さったのです。
全能でありすべてを支配しておられる神さまですから、ただ「赦す」とお決めになればそれで赦しは実現するはずです。しかし神さまは、赦しを実現するために、御子イエスさまの十字架と復活の御業をなさいました。これは、神さまは義だけれども愛である、というのではなく、義だからこそ愛である、ということを語っています。神の愛は、義に反して実現しているのではなく、義によって実現しているのです。あるいは義によって愛は実現した、それが神の愛である、というのです。これがキリスト教の語る愛と義なのです。
私たちの罪は、神のいのちをもってしかあがなうことのできないほどに大きなものでした。そして神は、ご自分のいのちをもってしてまでも、私たちを救いたいと願われたのです。
しばらく続いた大雪もおさまり、昨日は良い天気の中に主の日を過ごすことが出来ました。感謝します。午前中はまだまだ道に雪が氷となっている状態でしたが、共に集い礼拝を献げて新しい一週間に出発することが出来ました。総会資料が配布されましたので、次週の総会に向かってそれぞれご準備くださればと思います。また出席の難しい方は、委任状の提出にご協力下さい。メールやラインでも受け付けています。委任の旨をご一報くだされば、そのように受け付けたいと思います。また総会資料で誤字や訂正があれば、今週の金曜日までにご連絡くだされば、当日の資料の正誤表に加えることができますのでよろしくお願いします。