静まりの時 詩篇54・1~6(9)
日付:2023年01月20日(金)
神よ あなたの御名によって
私をお救いください。
あなたの力強いみわざによって
私を弁護してください。
(詩篇54・1(3))
詩篇54編は、協会訳などでは、原典に従って表題の部分を1,2節と数えていますので、新改訳とは数字が2節ずれています。ここでは新改訳2017の節で読みます。
1節の「私を弁護してください」は、共同訳2018では「わたしを裁いてください」と訳されています。弁護、というと、真実はさておき自分に有利なように守って下さいという感じがしますが、裁く、というと、真実が行なわれることを求めている、という感じがします。
人間である限りよこしまな部分を持っていない者はいないと思います。どこか弁護してほしいという願いを持つのだと思います。しかし真実が後回しになるならば、本当の解放はないのだと思います。神さまの裁きに耐えられる者は誰もいません。ただイエスさまのあわれみにすがる他はありません。
見よ 神は私を助ける方。
主は私のいのちを支える方。
(詩篇54・4(6))
この「主は私のいのちを支える方」は、共同訳2018では「わが主は私の魂を支える人々の中におられる」と訳されていました。神さまは私のいのちを支えてくださいます。それは「私の魂を支える人々の中におられる」ということによって支えてくださる、ということかもしれません。
人はひとりでは生きていけません。様々な人びとの支えによって生きています。生かされています。そのような人びとの中に、神さまはいて下さる、というのです。そのような人びとの中に、神さまを発見することが出来ていますか、と問われているようにも思います。
イエスさまを信じる信仰に生き始めて以来、世界が変わりました。世界が偶然の中にあるのではなく、全能で義で善で愛である人格をお持ちの存在が、すべてをその御手の中に治めておられる、そのような世界に生かされていると信じて生きるようになりました。厳しい現実の中にも、優しい現実の中にも、神さまのご意志があることを信じて生きるようになりました。それは、ともに生きる人びとの中にも、神さまがお働きになっておられることを信じて生きるようにされたということです。
神がすべての苦難から私を救い出し
私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。
(詩篇54・7(9))
この「私の目が敵を平然と眺めるようになったからです」は、新共同訳では「わたしの目が敵を支配しますように」、共同訳2018では「私の眼は敵を見据えます」。
問題が解決されることは救いだと思います。しかし問題の解決が見えなくても、その問題を、見据えることができるようになる、私の目がその問題を支配することができるようになることも、救いなのだと思います。
死を前にして、死を見据え、死を見つめる私の目が死を支配することが出来れば、それは死への勝利、ということが出来るのではないか、と思います。
WEBサイトのデザインを見直していたら、いつの間にか変わってしまったところが出来ていたようです。今朝、気がつく限り修正してみました。先日、ちょっと息苦しい一日だったなと思った日があったのですが、お風呂に入るときに、シャツの前と後ろが反対だったことが分かりました。と、そんなことなので、何かにつけていい加減です。WEBサイトの管理もゆる~くなっています。