静まりの時 2022年11月30日(水)
エゼキエル7・25~27
「25 恐怖がやって来る。
彼らは平安を求めるが、それはない。
26 災難の上に災難が訪れ、
うわさがうわさを生む。
彼らは預言者に幻を求めるようになる。
祭司から律法が、長老から助言が失われる。
27 王は喪に服し、君主は恐怖に包まれ、
民衆の手はわななく。
わたしが、彼らの行いにしたがって彼らに報い、
彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、
彼らは、わたしが主であることを知る。』」
(エゼキエル7・25~27)
7章には新共同訳では「主の怒りの日」、共同訳2018では「イスラエルの終わり」と表題がつけられています。最終的な審きの日。その章の最後の言葉が「彼らは、わたしが主であることを知る」。神さまの審きの目的は、神さまこそ主であることを人間に知らしめることにある、ということでしょう。人間が審かれなければならないのは、神さまが主であることを知らない、神さまを主として生きていない、ということを正すためである、ということなのです。神さまに正されて、神さまこそ主であることを知り、そうして生きていくことが人間の幸福なのですから、主の審きの最終的な目的は、人間の幸せのため、ということが出来るでしょう。
この神さまの最終的な審きにおいて、「彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司から律法が、長老から助言が失われる。王は喪に服し、君主は恐怖に包まれ、民衆の手はわななく」と書かれています。預言者も、祭司や長老も、王も君主も、そして民衆もなすすべがない、ということです。審きを前にして人はなすすべがない、という意味でもあると思いますが、それだけではなく、この審きにおいて、人間の出る幕はない、という意味でもあるのではないか。審きというのは、神さまのひとり舞台なのです。かつてある宗教が行なったテロ行為のように人間がもたらすものではありません。人間が審きをもたらしたとすれば、それは人間が主となったことを知ることでしょう。審きは、神さまが主であることを知るときなのですから、そこでは人間の業はすべてストップするのです。
「恐怖がやって来る。彼らは平安を求めるが、それはない」。神さまを主とすることなしに平安がやって来ることはありません。神さまとの正しい関係をいただかないでは、人間はいつまでも恐怖の中におかれているのです。そして自らがそのような状態にあることすら知らないでいるのが人間の悲惨なのです。
神の子イエスさまが、この地にお生まれになり十字架と復活によって、贖いの道、赦しの道、神さまとの正しい関係に生きることが出来る道をひらいてくださいました。主にある者は、みな神さまとの正しい関係をいただきました。神さまとの正しい関係の中に生きることが出来ます。ですから、たとえ環境や状況に平和がなくても、また心の中に平安がなくざわつくような毎日であっても、主とともに歩む者は、何人も奪うことが出来ない平安、平和をもっています。
昨日はこの季節にはめずらしくずいぶんあたたかな一日でした。今日から寒くなるようです。今日は11月最後の日なので団体会計の締めの作業を行うことになります。銀行や郵便局は健康のため自転車で行くのですが、温かくして出かけようと思います。
「事の成り行きが自分にはまったくわからないときでも、
わたしはほほえんで、
ありがとうございますと言って、
神さまのみ前にいつも喜んでいるようにしています。
(教訓83P)」
(リジューのテレーズ、『365の言葉』、レイモンド・ザンベリ編、伊従信子編訳 女子パウロ会 2011年4月20日発行、13頁)
「もし偉大なことをしなければならないのでしたら、
わたしたちは大いに嘆かねばなりません!
ところがわたしたちは本当に幸せです。
イエスさまは、ごく小さなわざで、
虜になっておしまいになるのですから!
(手紙191)」
(前掲書、40頁)