静まりの時 2022年11月29日(火)
第二コリント6・1~10
「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。
神は言われます。
『恵みの時に、わたしはあなたに答え、
救いの日に、あなたを助ける。』
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。
すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」(第二コリント6・1~10)
私たちは神さまとともに働く者である、とパウロは語ります。その働きは「神のしもべ」(4)としてなされるものです。人間が神さまの前に対等に立ってともに働くのではありません。罪と滅びの中にしかなかった者を救い出してくださった神さまの恵みによって今生かされている者として神さまとともに働くのです。神さまとともに働くことは、自らが神さまのしもべである、ということを抜きにしてはできません。自分が神さまのしもべであるということを喜びと感謝をもって受け入れている者でなければ、神さまとともに働くことにはならないのです。神さまの恵みによって生かされていることが分かっていないと、自分が主人のようにふるまい、神さまを奴隷のように扱ってしまうでしょう。神さまの恵みが分かっていないと、自分で自分の義を打ち立てなければならない焦りの中で、憔悴していくでしょう。
私たちは神さまの恵みを受けた者です。この神さまの恵みを無駄に受けないようにしてほしいとパウロは願います。恵みの時、救いの日に、神さまが答えてくださり助けてくださる。今この時も恵みの中にあり、今日も救いの中にあるのだから、その恵みの中を胸を張って喜びと感謝をもって生きていこう、と語るのだと思います。苦難、苦悩、困難、むち打ち、入獄、騒乱、疲れ果てた時、眠れない時、食べられない時。そんな日々を送っていることであろう、しかし大いなる忍耐を働かせよう、そのような中にあっても、純潔、知識、寛容、新設、聖霊、偽りのない愛、真理のことば、神のちから、義の武器によってひたすら生きていこう、と呼びかけます。神さまの恵みを無駄にしない、ということは、結局、今この時、神さまの恵みを十分に味わって生きていく、喜びと感謝をもって生きていく、ということでしょう。
神のしもべとして自らを推薦している、といいます。どのようなことで自分を推薦しているのか。「ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦している」といいます。人間的に考えれば「ほめられたり、好評を博したりすることによって」推薦している、と言うところではないか、と思います。しかしパウロは「ほめられる」ことだけではなく「そしられる」ことにおいても、また「好評を博する」ことだけではなく、「悪評を受ける」ことにおいても、私たちは自分を推薦しているというのです。それは神のしもべとして推薦することだからだと思います。ほめられたり、好評を博したりしたときには、それによって、神さまの御名があがめられることでしょう。逆にそしられたり、悪評を受けたりしたときには、そのような者を神さまはあわれんでくださっている、ということで、また神さまの御名があがめられるのです。これが、私たちがあがめられるということを考えているならば、どうにも受け入れがたいことなのだと思います。しかし自分は神さまのしもべである、ということが十分に分かっている者、あるいは分かろうとしている者にとって、至極納得できることではないか、と思います。
ですから「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」というのです。これは、もはや見えるところによって、自らを判断しなくてもよい、そのようなことから私たちは自由にされている、ということでしょう。人間的な価値基準による評価から解放されている、ということでしょう。このように自分というものから解放された者こそ、自分を推薦することが出来るのだ、と思います。幸いなことだな、と思います。だからしんどい時はしんどいと言えばいいし、悲しみの時には悲しめばいいのです。恵みを無駄にしないということは、安心して自らの弱さを生きるということなのです。