静まりの時 2022年11月28日(月)
イザヤ12・1~6
「その日、あなたは言う。」(1)
「見よ、神は私の救い。
私は信頼して恐れない。
ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。
私のために救いとなられた。」(2)「主をほめ歌え。
主はすばらしいことをされた。
これを全地に知らせよ。
シオンに住む者よ。
大声をあげて喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、
あなたの中におられる大いなる方。」(5,6)(イザヤ12・1~6)
バビロン捕囚の苦しみの中あるイスラエル。しかし預言者イザヤは神さまからの御声を聞きました。「その日」が来るとあなたは「主は、私の力」「私のための救いとなられた」と歌う者となる、との神さまの御声を聞きました。主にある者は、「その日」すなわち、戦いがやみ平和がやって来る日を、主から知らされている者です。主がその喜びの日を備えていてくださる、喜びの歌を歌う日がやって来ることを信じる者。それがキリスト者です。
平安、平和は、状況の問題でも、心の問題でもなく、信仰の問題である、と昨日も礼拝において学びました。最終的な審判者である神さまが、滅びに向かう私たちをご覧になって深くあわれみ、救いの御手をのべてくださいました。御子イエスさまを遣わすほどにこの世を愛されたその愛によって自ら救いの道をひらいてくださいました。神さまが義を成り立たせてくださったのです。私たちは自らが義を成り立たせなければならない焦りの人生から解放され、神さまの御手の中にあって平和をいただきました。この平和、平安は永遠のものです。神さまがともにいて下さるとの信仰を持つとき、私たちは、あらゆる状況の中にあって平安なのです。やがての時の喜びを信じる者は、また今の時を喜びをもって生きることが出来る者です。今日も、主にある喜びをもって歩みたいと思います。
主は私の中におられる大いなる方、私たちの中におられる大いなるお方です。それは私たちのうちに私たちが作り上げた義があるからではありません。神さまが十字架と復活によって完成してくださった義の道を受け入れたからです。罪と滅びの中にしか生きることが出来ない私たちは、その神さまの愛と義を受け入れるしかありません。
私たちの何かによって主がともにいて下さるとするならば、それは確かなことではありません。神さまが成してくださったことによって、神さまご自身がともにいて下さると聖書は語りますので、これは揺るぐことがありません。私たちの足りなさ、弱さを超えて、主はともにいて下さいます。このお方こそ大いなる方です。
待ち望みの季節を迎えています。
昨日は、三つ巴の優勝戦、阿炎、初優勝おめでとうございます。感動しました。