主はご自分の地をねたむほど愛し

静まりの時 2022年11月08日(火)
ヨエル2・18~24

18 主はご自分の地をねたむほど愛し、
ご自分の民を深くあわれまれた。
・・・
21 地よ、恐れるな。
楽しみ、喜べ。
主が大いなることを行われたからだ。
22 野の獣たちよ、恐れるな。
荒野の牧草が萌え出で、
木が実を実らせ、
いちじくとぶどうの木が豊かに実る。
23 シオンの子らよ。
あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。
主は、義のわざとして、初めの雨を与え、
かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、
初めの雨と後の雨を降らせてくださる。
24 打ち場は穀物で満ち、
石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。
(ヨエル2・18~24)

 神さまは私たちを愛しておられます。その愛は「ねたむ」ほどの愛である、と預言者ヨエルは語りました。
 ねたむ、というと、ちょっと否定的な印象を受けます。新共同訳では「強く愛し」と訳していますが、やはり原文の言葉を大切にしてか、共同訳2018では「妬(ねた)むほど想(おも)い」と訳しています。原語は「ねたむ、うらやむ」というような意味とのこと。

 親は子どもに対して愛を注ぐものですが、子どもがひとりではなく、幾人かいる場合に、平等に愛を注ぐ、ということは、なかなか難しいものです。下の子のほうが可愛く思えて、上の子に少しきつく当たることがあったり・・・。親の方が実際にそのようなことをしなくとも、子どもほうの受け取り方もあるかもしれません。平等というのは難しいのです。そもそも平等などということは、この世界にはもともと存在しないのかも知れません。
 しかし神さまの愛は、私たち一人ひとりに平等に注がれています。私たちの事情に関わらず平等に注がれているのです。愛されている人と愛されていない人がいるわけではありません。
 ただこの場合の平等には、すこし落とし穴があるように思います。神さまは人格的なお方です。神さまの愛は、私たちのとの間に豊かな愛の関係を結ぼうとされる愛です。人格的な愛は、平等を超えているように思います。

 確かに神さまの愛には、えこひいき、はありません。しかし先日の礼拝でお話ししたリジューのテレジアの言葉を覚えておられるでしょうか。

一人ひとりに
聖テレーズ

ちょうど太陽の光が
杉の大木と同時に
小さな花の一つひとつを
まるでこの地上には
その花しかないかのように照らすのと同じで
主も一人ひとりに
まるでその人以外だれもいないかのように
特別なこころをお配りになります

(『詞華集 日だまりに』、女子パウロ会編、32頁)

 イエスさまは、失われた一匹の羊を探すために、99匹を野原に残す羊飼いのたとえ話をされました。一人の人への愛が、他の多くの人を失うほどの危険性をかけて注がれる、それが神さまの愛であると言われたのです。これをえこひいきという人もいるかもしれません。平等でない、と非難する人もいるかもしれません。しかし、私たちは、これを99匹はどうでもよいと思っておられるのではなく、それほどに一匹を大切にされるのだ、それが神さまの愛だ、と読みます。そのような大きな愛が、すべての人に注がれていると読むのです。これが神さまとの人格的な関係の中に注がれる愛なのだと思います。このような人格的な関係の中に注がれる愛こそ真実の愛であると私たちは教えられたのだと思います。
 夫婦の関係の中に生まれる愛を考えてみると、例えば夫が、私は愛深いから妻だけではなく他の女性も愛することが出来るのです、と言ったとすれば、それはもう愛ではありません。奥さまのほうも、私は愛深く心が広いので、夫が他の女性を愛しても何とも思わないのです、と言ったとすれば、そんなものは心が広いのではなく、愛していない、ということでしょう。むしろねたみや嫉妬が生まれることはごく自然なことであり、大切なことでしょう。

 神さまの愛は、あまねく人々に注がれていますが、その愛は、私以外誰もいないかのように注がれる愛でもあるのです。ですからそこに「ねたみ」という感情的な言葉が語られることも自然なことなのだと思います。

 すべての人に公平に注がれる愛、と、その人以外だれもいないかのように注がれる愛。この二つの愛は、私たち人間の論理を少し超えていると思います。イエスさまの十字架の愛とは、そのように人間の論理を超えている愛でもあります。

 今日は皆既月食があるそうです。