静まりの時 2022年11月03日(木)
コロサイ3・12~17
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(コロサイ3・12~17)
コロサイの教会にパウロが手紙を書かなければならなかったのには、いったいどのような事情があったのでしょうか。2章20~23節に以下のように書かれています。
「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」
律法主義によって人間の好き勝手な礼拝、いたずらな自己卑下や肉体の苦行が起こっていたということでしょう。イエスさまによって、罪と滅びから贖い出された者としての喜びや感謝が失われていたということでしょう。喜びや感謝が失われると、互いの交わりがぎくしゃくしてしまい、礼拝には緊張が走り、とても恵まれたという状況で無くなってしまったということでしょう。
そういうコロサイの教会に向かって、パウロは「~しなさい」といくつもの新しい命令、戒めを語りました。
深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けること、互いに忍耐し合うこと、互いに赦し合うこと、キリストの平和によって心が支配されること、感謝の心を持つ人になること、キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むこと、知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌うこと、ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いうこと。
これらを「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」として行いなさい、と語りました。
「愛は結びの帯として完全です」(14)。
新共同訳では「愛は、すべてを完成させるきずなです」。共同訳2018では「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」。
律法主義による問題が解決されるために、新しい戒めが語られているのだと思いますが、その一つひとつを「愛」という帯で結び付けて行こう、ということでしょう。愛以外のもので結び付けようとするならば、再び律法主義に陥ってしまう、「新しい戒め」による律法主義に陥ってしまうということでしょう。
人間は生まれつき律法主義者なのです。自らが生まれつき律法主義者であることをわきまえ知っていましょう。イエスさまに出会い、イエスさまのいのちに生かされていないと、その律法主義が顔を出し、他者を、そして自らを傷つけていってしまうことに気づいていましょう。
祝婚歌 吉野弘
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気づいているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい(『詞華集 日だまりに』、女子パウロ会編、28頁)