かすかな細い声

静まりの時 2022年11月02日(水)
第一列王記19・9~18

 主は言われた。
「外に出て、山の上で主の前に立て。」
 するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。
 しかし火の後に、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。
「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
(第一列王記19・11~13)

 バアルの預言者との信仰の戦いに勝利した預言者エリヤ。それに激怒した王妃イゼベルはエリヤのところに使者を送り、殺害の予告を告げます。
 これを聞いたエリヤは、バアルの預言者との信仰の戦いの時のように再び勇壮にそれを受けて立つのか、というとそうではありませんでした。恐怖と失意の中に逃亡するのです。

「自分のいのちを救うため立ち去った」(3)。

 エリヤは荒野を進み、一日の道のりを入って行ったところの、エニシダの木の陰に座り自分の死を願います。エニシダの木とは、旅人の木とも言われるとか・・・。

「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」(4)。

 エリヤは、自分のいのちを救うための逃亡したのですが、その先で死を願うのです。複雑です。失意の中で叫ぶ「死にたい」という言葉は、実は「生きたい」という叫びなのです。

 神さまは、そのようなエリヤをねんごろに取り扱って下さいました。パン菓子と水を準備し、起きて食べなさいと語って下さいます。やはり何よりも食事ですね。
 旅をつづけたエリヤは洞穴に入り一夜を過ごします。すると主の言葉がありました。

「エリヤよ。ここで何をしているのか」(9)。

 これにエリヤは答えます。自らの心の内を注ぎ出すように語りました。そのエリヤに主は語って下さいました。

「外に出て、山の上で主の前に立て」(11)。するとそのとき、主が通り過ぎられました。

 旧約聖書においては、神さまは「通り過ぎる神」として人に出会われます。人間は神さまの横顔を見るのです。正面から、顔と顔をあわせて見るということは、基本的にはないようです。ですから顔と顔をあわせて見る、出会うということは、よほどのこと、異例のこと、もったいないことなのですね。(第1コリント13・12)

 さて、主との出会いにおいて、主が語られるのですが、「激しい大風」「地震」「火」のなかに神さまはおられませんでした。これらは一般的に「神」という存在が「語る」というときに、人間が期待する現象なのでしょう。しかしこのような人間が期待する、大きなこと、の中に神さまはお語りになられませんでした。

「しかし火の後に、かすかな細い声があった」(12)。

 エリヤはこの「かすかな細い声」に、外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立ちました。そうして神さまからあらためて語られます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。

 「かすかな細い声」。新共同訳では「静かにささやく声」、共同訳2018では「かすかにささやく声」。リビングバイブルでは「ささやくような優しい声」。

 神さまは、失意の中にあるエリヤに、このように語って下さいました。傷心に大声は、かえってその傷を広げてしまう、ということでしょうか。講壇から牧師が語る言葉は、大きな声でないと聞こえないので、はっきりとよく通る声で語らなければなりません。また会衆に眠気を与えないように、一所懸命語らなければなりません(笑)。しかし、何か営業マンや自己啓発セミナーの講師、ベンチャーの偉い人のように、マシンガントークで語るというのは、考えものですね。私もついつい早口になってしまうので、戒めなければならないな、といつも反省します。
 さて、それはそうとして、この「かすかな細い声」を聞くことが出来る者でありたい、と思いました。この世は、声高に語ります。しかし神さまの声は、かすかな細い声、で語られます。私たちは耳を澄まさなければなりません。心を、あるいは身体全体を、そのかすかな声を聞き逃さないように、整えていなければなりません。さらには、かすかな声を聞けるように、静かな環境に身を置かなければなりません。
 このような静かな時間、場所、環境を、持っていたいと思いました。
 主イエスさまは、まことに小さな存在としてこの地に降り立ってくださいました。そのまことの言葉を聞きたいと思いました。

 何よりも礼拝の時は、このような静まりの時なのだと思います。さまざまに心を騒がせるこの世から、少し距離を置き、神さまの前に静かな時を過ごす、そうして語られる神さまのお言葉に耳を澄ます、のです。そのような時、そして場所が与えられていることは何とすばらしいことでしょうか。

 昨日はオンラインで牧師会が行われました。先生方のお顔を拝見し、各種報告、研究発表、情報交換、近況報告、祈りが行なわれました。身体の不調や痛みを負う先生方、また牧会の中でさまざまな重荷や痛みを背負う先生方。ともに祈り励まし支え合いがあることを感謝しました。