静まりの時 2022年2月11日(金)
民数記10・33~36
「・・・こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。・・・」
(民数記10・33、新改訳2017)
神さまはモーセをご自身のしもべとして召されエジプトで奴隷の民であったイスラエルを解放されました。エジプトを出発したイスラエルの民は、旅する人びととなりました。彼らを導くのは「主の契約の箱」です。契約の箱は、三日の道のりの間、イスラエルの民の先に立って進み、イスラエルの民が休息する場所を探しました。モーセが探したのではありません。主の契約の箱が彼らの安息の場所を探したのです。
このように主の契約の箱が、擬人的に語られているので、のちのちこの箱そのものに、神さまの力があると考えるのも無理のないことでしょう。戦いの勝利を願ってイスラエルの人びとがこの箱を持ち出したように(第一サムエル記4章)、また映画インディージョーンズの「失われたアーク」のように。
しかしこの箱のおさめられているのは、十のことば、すなわち十戒であり、それは神さまとの間になされた「契約」なので、主御自身が導いてくださることであり、同時に主への信仰が導くと理解することが大切なのだと思います。信仰がなければ、主の契約の箱も、ただの箱でしょう。聖餐式のパンとぶどう汁も信仰がなければ、ただのパンとぶどう汁であるように。
しかしさらにその上で「主の契約の箱が・・・彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した」と書かれていることにこだわってみたいと思います。信仰がなければただの箱なのです。しかしそのことを十分に理解しつつ、やはりただの箱ではない、ということを聖書は語ろうとしているように思うのです。
神さまは私たちに安息を与えようと、私たちに先立ち、その場所を探してくださいます。今日も、私たちに先立って、平安な一日を送ることができるように導いてくださいます。それは抽象的なことではなく、やはり具体的なことごとを通して導いてくださっているのではないでしょうか。
希望と喜びをもって生きるために、神さまは先立ってくださり、ともに生きる人びとからのあたたかい言葉や配慮、美味しい食事、温かい飲み物、すがすがしい空、風、山並みの風景、一枚の絵、道端に咲く草花、など、さまざまなものを備えていてくださるのではないでしょうか。私たちは、そのような具体的なものの中に神さまのあたたかいご配慮を発見することができるのではないかと思います。
聖餐式のパンとぶどう汁も信仰がなければ、ただのパンとぶどう汁でしょう。しかし聖餐式において祈られたパン、ぶどう汁となった瞬間から、それはただのパン、ぶどう汁ではありません。ですから余ったからといって粗末に扱うことをしません。余ってもったいないからといって未受洗者にも食させるということをしません(笑)。
ローマ・カトリック教会では、パン(ホスチア)とぶどう酒は、祈られた瞬間から「客観的恵み」そのものとなるので、ぶどう酒の触れた用具は、使用後は特別な流しで洗われ、その流された水は会堂の地中にしみこんでいくような構造になっているとか。ホスチアは余ると大変なので、近年は、聖堂に入る時に、祈られる前のホスチアの入っているケースから、参加者一人ひとりが移すそうです。そうすると参加人数分がパンのさらに準備されるので、余ることがないとか。
私たちは近代、科学の時代に生きているので、物質と精神や心、見えるものと見えないものを分けて考えるようになってしまっていますが、それはあんまり分けない方が良いのかもしれません。
私たちは、あたたかい飲み物や食べ物が、からだも心も温めてくれることを知っているのですから。
さて、今日は団体・教会合同聖会が行われます。感染症対策として、オンラインがメインの集いですが、教会でも三つのスクリーンを準備して、間隔をあけて参加できるようにしてみました。スマホではいまいち、と思っている方は感染症対策をしてご来会ください。