この契約のことばを聞け

静まりの時 2022年2月7日(月)
エレミヤ11・1~5

「主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。『この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。・・・私は答えた。『アーメン。主よ。』

(エレミヤ11・1,5、新改訳2017)

 エレミヤに「この契約のことばを聞け」「これをユダの人とエルサレムの住民に語れ」と神さまからのおことばがありました。エレミヤは「アーメン、主よ」と答えました。それでエレミヤは預言者としての使命を果たしていきます。
 預言者は、神さまから語れとの命を受け、そのことばを聞き、そして語れとの命令を受け、語ります。そこにあるのは、「召し」「聞くこと」「語ること」です。
 まずエレミヤを始め、イザヤやエゼキエルほか、預言者はすべて神さまからの召しをいただき、その預言者としての働きを始めます。神さまからの召しがあるので、預言者としての働きが成り立つのです。自分が語りたいから語るのではありません。
 そして神さまからの言葉を聞きます。神さまに聞くということが、語るということに先立ちます。神さまから聞かない者は、語ることができません。
 そうしてようやく語るということがはじまります。

 これは今日の説教者も同じです。神学校で学び蓄えた知識を、講壇で語るのではありません。日々神さまから「聞き」それを「語る」のです。つまり預言者、説教者は、いわゆる自転車操業なのです(笑)。聞く、ということをしないで語ることはできません。聞くということをしないで語り始めるならば、そこで語られる言葉はその話者の語りたいことが語られているだけでしょう。そこには神さまの言葉はないのです。
 ですから説教者は「聞く」という祈りの時を大切に過ごします。

 その説教者には神さまからの「召し」が必要です。神さまに召されたという確信。それは召される理由、能力が自分にあるから、というのではありません。神さまの一方的な選びの奇跡の中に自分があることを謙虚に受け入れるということです。どうして自分が選ばれたのか皆目見当がつかないけれども、選ばれてしまったので、その召しにただ従う、ということが説教者に必要なことなのです。
 そうして語ることばは、パウロが語ると同じように
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです・・・」(第一コリント15・3~)。
 受けたことを語る。二千年の教会が語り続けた言葉を、語る。その同じことばを語る、ということです。何か目新しいことを聞きたい罪びとである私たち(使徒17・21)に語られるまことの神さまの言葉は、「こは げに旧き 教えなれど 日々新しき歌とぞなる」(新聖歌434)、なのです。

 昨日は、大雪の予報がなされていました。午後の彦根教会の礼拝説教に長浜の先生に応援に行っていただく予定でしたが、大雪で車が出せない、との電話が入りました。しかし間もなく、大丈夫の連絡があり、ご奉仕いただいたようです。感謝します。無事安全に帰宅されたでしょうか。こちらは少しちらつく時がありましたが、大丈夫でした。
 午後に定期教会総会が行われました。感染症対策を考慮して2時間で終われるように、少しプログラムを工夫しました。予定や予算に関しては、3月の拡大運営役員会を信徒全体会として、継続審議としつつ、総会としては変更有として大枠を承認していただきました。予定の15時を過ぎたころに総会は終了し、雪がちらつき始めました。続いて新旧運営役員会が、短時間で行われました。皆さん、お疲れさまでした。感謝です。