人の子には枕するところもありません

静まりの時 2022年1月22日(土)

「・・・そこに一人の律法学者が来て言った。『先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。』イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。』・・・」

(マタイ8・18~22、新改訳2017)

 イエスさまがご自分の周りに群衆がいるのをご覧になり、ご自分に従ってきている弟子たちに向かって、向こう岸に渡るようにお命じになりました。「そこに」一人の律法学者が来て、イエスさまに向かって、どこにでもついて行きます、と言います。それに対してイエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」とお答えになりました。新共同訳、共同訳2018などには「弟子の覚悟」という表題がつけられています。主に従う者の道は、平坦な道ではなく、枕するところもないような苛酷な道である、ということでしょう。そういう覚悟をもって従っていく、主に従うということはそういうことである、ということでしょう。

 ルカの福音書の並行箇所には「ある人」(ルカ9・57~)と記されていますが、マタイの福音書ではそれが「一人の律法学者」であったと記されています。すべてイエスさまに従おうとする者、そしてことさら律法に忠実に生きようとして献身する者が知らなければならないことが、ここに記されている、と読むこともできるのではないでしょうか。
 確かに、主に従う弟子の歩みには苛酷なものがあるかもしれませんが、ここでイエスさまは、あなたがたも枕するところもないような歩みをします、と言われたわけではありません。枕するところもないのは、イエスさまご自身のことです。

 主イエスさまご自身が、枕するところもない歩みをしていてくださっている、とい割れました。イエスさまは、枕するところもない、心安んじるところもないような、そんなところに立っていてくださる、それがイエスさまである、ということを知る、自分自身が枕するところもないような苛酷なところに立たされた時、そこにイエスさまもともにいてくださる、そのようにあわれみ深いお方、それがイエスさまである、献身する者はそのことを知らなければならない、律法主義の中で献身を決意した者こそ、そのような「ともにいてくださるイエスさま」を知っていなければならない、もしそのイエスさまを忘れてしまったときに、献身はぐらつく、そういうことではないかと思います。

 人間は生まれながらの律法主義者である、といいます。誰かをさばき、そして自分自身をさばきます。誰かをさばくことで他者を傷つけます。しかし他者を傷つけやすい人ほど、また自分自身が傷つきやすい人でもあります。傷つけやすい人は傷つきやすい人なのです。それはさばきの目線を他者にも自分にも向けているからです。そういう目線を持ったままで献身すると、その献身は長続きすることはありません。
 どんなところにもともにいてくださる主イエスさまにお出会いしなければ、献身は成り立たないのです。だからこそ、どこに行かれようとも従います、という律法学者には、主イエスさまご自身が枕するところもないところにいてくださることを知らなければならなかったのではないかと思います。

 昨日は印刷作業の一日でしたが、午前に室内自転車、午後からは雪もあかりましたので、ウォーキングに出かけ、さらにゆっくりとでしたが、雪どけの作業をしてみました。今回の雪は京都や大津でも多かったようです。東近江では5~10センチほどの積雪でした。午前に駐車場を利用されている隣の病院のかたが駐車場の一部を雪どけしてくださいましたので、もう少しだけしておこうとスコップを手にしました。
 2,3週間前には、雪どけ作業を5分ほどしただけでギブアップしたので、今回は、ゆっくりゆっくり、踏ん張ったり、息を詰めて力を入れることをいっさいせずに作業をしました。ゆっくりなので、2時間近くかかりましたが、駐車場の全面の雪をどけることができました。少し汗ばむぐらいでちょうどよい運動になりました。これでしばらくは雪も降らないということで、明日の日曜日は安心して皆さん来会していただけます。
 今朝も少し身体の疲れが残っていますが、気持ちのよい疲れです。発病半年が過ぎおかげさまで前進しています。

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