静まりの時 2022年1月21日(金)
「・・・ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。』・・・」
(使徒9・1~9、新改訳2017)
主イエスさまは、自らへの迫害に燃えるサウロ(のちのパウロ)を、ご自身の弟子として召されました。その召されかたは劇的です。迫害のために前進するその途上で「突然に」天からの光に照らされるのです。神さまのお働きはときに突然です。人間の計画をはるかに超えたところで進みなされていきます。主を信じる者は、この「神の突然」を信じています。ですから自分の計画通りに事が運ばなければならない、という思いからいつも自由にされています。もうすぐ教会も総会を迎えますが、総会で大切なことは、人間の計画が進むことではなく神さまの計画が進むことです。そのためにいつも私たちは、神さまはどのように突然に働いてくださるであろうかと、ワクワクしながら待ち望んでいます。もちろん計画は立てますし、そのために十分な準備をします。しかし十分な準備をすればするほど、人間はそれにとらわれていきます。頑なになります。「イエスさま、今はちょっと黙っていてください、私の計画を進めているのですから」と鼻息荒く邁進しています。悲劇であり喜劇です。主にある者はつねに自分の思いから自由にされていたいと思います。
サウロは、突然の光に照らされて「地に倒れ」「自分に語りかける声」を聞きました。本当に神さまの光に照らされるならば、人間はまず「地に倒れる」のです。突っ立ったままではいられないのです。足もとから崩れていくのです。また崩されなければならないのです。それが神さまの光に照らされる、ということです。
そして神さまの光に照らされるということは「自分に語りかける声」を聞く者、すなわち神さまのみ声を聞く者とされます。ここでも神さまから「ことば」が語られ、それを人間は「聞く」ということが起こっています。神さまの光に照らされるということは、このように神の言葉を聞く者とされる、そのことを喜びとする、そしてその声にこたえる者となる、ということです。ですから教会の集いではことごとく「神のことば」が語られるのです。
神さまの光に照らされ、ひれ伏して神さまのみ言葉を聞く者とされる、それがキリスト者となる、ということです。そうして人生が変えられていくのです。思いもよらなかった新しい人生が始まるのです。
パウロは新約聖書27巻中13巻、じつに約半分を書いた使徒となりました。神さまを迫害していたパウロから、神さまに用いられるパウロとなりました。パウロは生涯この恵みの経験を、証ししています。自分がどのようなところから救われたのかを忘れませんでした。罪人の頭である自分を救って下さった神さまの愛に生かされていきました。
ところでパウロはなぜ迫害していたのでしょう。なぜキリスト者を迫害することになったのでしょうか。パウロは極悪非道の人物ではありません。むしろユダヤ教に熱心な、誰よりも神さまを求め、神さまのおこころを第一に歩もうとしていた人です。律法を守り、聖書を第一にしていました。聖書の言葉通りに生きようとしていました。しかしそれがキリスト者を迫害することとなったのです。パウロには決して悪いことをしているという自覚はなかったと思います。むしろ神さまが喜んでくださると信じて迫害に邁進していたのです。
人間は生まれつき律法主義者なのです。律法主義に生きることができない者が救われて律法主義に生きることができるようになった、というのは聖書の語る救いではありません。聖書の語る救いは、生まれつき律法主義者である人間が、神さまの愛に生きるようになる、そのように自由になる、それが聖書の語る救いなのです。
にもかかわらずキリスト教会の歴史をみると、律法主義で人びとをさばく姿が少なからず見えてくるのはいったいどういうことでしょう。