神のみこころを行う人

静まりの時 2022年1月19日(水)

「さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは『ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます』と言った。すると、イエスは彼らに答えて『わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか』と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。』」

(マルコ3・31~35、新改訳2017)

 肉親としての母、兄弟ではなく、みこころを行う人こそわたしの兄弟、姉妹、母である、と主イエスさま言われました。では「みこころを行う人」とはこの個所から考えるとどのような人と言えるでしょう。私たちは「みこころを行う人」とは一体どのような人と考えるでしょうか。
 ここには二種類の人たちが登場しています。一つのグループは「外に立ち、人を送ってイエスを呼ぶ」人たちです。自分たちの立場は一向に変えようとしません。自分の生き方、自分の考えはいっさい変えないのです。そうして人を送ってイエスさまを呼ぼうとします。その人にとって周りの人は、神を呼ぶための「道具」であり、神は自分が呼べはいつでもこちらにやって来る便利屋さんです。
 それに対してもう一つのグループは「みこころを行う人」です。ではここで行われているみこころとはなにか。「ご自分の周りに座っている人たち」。その人たちを指して「みこころを行う人」とイエスさまは言われました。みこころとは主イエスさまの周りに座る、ということ。いわゆる何かをしているのではありません。「マルタとマリア」(ルカ10・38~)のマリアのように、ただイエスさまの周りに、前に、座っている、そしてそのおことばを一つも洩らさず聞こうとしている、それが「みこころを行う」ということである、と聖書は語ります。

 私たちは、しずかにひたすらイエスさまのみもとに座る、ということをどれだけしているでしょうか。それを後回しにして、いくら奉仕に、いくら礼拝に、いくらさまざまな活動に邁進していたとしても、どこかむなしいものです。一番大切な「みこころを行うこと」が後回しにされているならば、むなしいのです。

 昨日は、午後会議のために久しぶりに出かけることになりました。オンラインでの会議が日常となっているのですが、じかに出会って話し合いをするということは、やはり大切なことだと実感しました。感染症対策をしての会議なので、互いに数メートルの距離をとっての会議で、不思議な感じでしたが、良い時でした。
 そんなことで、昨日はウォーキングに出かけることができませんでした。雪のちらつく午後だったので、ちょうど良かったといえばよかったのですが。

 何かでの聞きかじりですが、ウィーキング、つまり歩くということについて。
 「歩く」という漢字は「少」し「止」まると書くのだ、と言われていました。なるほど、少し止まることがなければ、歩いているように見えても、実は小走りになっているのかもしれません。小走りになっている時は、だいたい前のめりで、目が血走っています(笑)。パウロはしばしば信仰によって歩むということを語ります。

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」

(コロサイ2・6)

 キリストによって走りなさい、とは言われていないのです。明日で発症から半年が経ちます。私にとって今回の病気は、少し止まる、よい機会だったのだな、と思い返しています。