ご自分が望む者たち

静まりの時 2022年1月18日(火)

「さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。・・・イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。」

(マルコ3・13~19、新改訳2017)

 イエスさまは12人の弟子たちを召されました。使徒たちの数は12であり、その数字に聖書はこだわっています(使徒1章)。これはイスラエル12部族になぞらえているからでしょう。つまり12人の使徒たちにより開始される「教会」こそ、旧約聖書に記された神の国イスラエルである、新イスラエルがここに生まれた、ということを表しているのでしょう。ですから教会に生きる私たちは現在パレスチナに生まれているイスラエル国家を信仰的に特別な国として扱うことから自由にされています。
 さてイエスさまは「ご自分が望む者たち」、他の訳では「これと思う人々」を呼び寄せられました。そうすると「彼ら」がみもとに来た、と聖書は語ります。「彼ら」は自分たちから望んできたわけではありません。自分たちの行動、意志が最初にあったわけではありません。イエスさまが「お望みになられた」それで「呼び寄せられた」ので、みもとに来たのです。それが弟子であり使徒である、おおよそキリスト者はそのように呼び寄せられた者たちである、といいます。私たちは、押し掛け女房ではなく、イエスさまが恋焦がれて呼び寄せてくださった者たちなのです。
 そして驚くべきことに、その12人の中に「イスカリオテのユダ」が含まれています。そしてこのイエスさまが呼び寄せられた時点で、イスカリオテのユダが裏切るかどうかわからない、というのではなく、イエスさまはすべてをご存じですから、イスカリオテのユダの自分を裏切るということを完全に知っておられるうえで、召されたということです。
 この「裏切る」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語では「パラディドーミ」といって、聖書の中では大切な言葉です。多くの場合は「引き渡す」と訳される言葉です。聖餐式のときに「私は主から受けたことを・・・主イエスは渡される夜・・・」(1コリント11・23)と聖書が朗読されますが、その「受けた」と「渡される」という言葉です。
 イエスさまは、この弟子を召す、ということにおいて、ご自分の十字架への道を明らからにしておられます。イエスさまの十字架は、道半ばの失敗ということでは全くなく、十字架こそイエスさまのご生涯の最大の目的であった、ということなのです。

 ところで、この「このユダがイエスを裏切ったのである」という文章が、この個所に記されている、ということは、この箇所の執筆時点でユダの裏切りが明らかであった、執筆陣の中では周知のことであったということですね。聖書は、ビデオカメラでイエスさまの生涯を記録したようなものではなく、イエスさまの生き証人たちが死んで少なくなり第2、3世代が生まれてきた教会の中で、記されたものです。ですからその時点でイスカリオテのユダは、裏切者であるということが、キリスト教会(教界)で明らかであった、すなわちすでに弟子としてはその資格を失っているとみられてもよかったのですが、ここに「ご自分の望む者たち」の中に、依然入れて記述しているのです。このことは、十字架が御心であったということとともに、大切な教会の在り方を記しているように思います。
 一度神さまに召されたならば、その後どのような歩みをしようとも、その人物を人間的な視点で裁かない、判断しない、ということではないでしょうか。
 古代教会で大切な論争の一つに、ドナトゥス派に関する論争があります。ぜひウィペディアで調べてください(笑)。現代に当てはめるとすれば、棄教してしまった牧師からの洗礼は有効であるか、という議論になるかと思います。教会は、それは有効であると判断してきました。その意味は、洗礼は確かに牧師という人物のすばらしさ(笑)によって、なにか重たさがあるように思いたいところがありますが、そうではなく、牧師がどのような人物であっても、そこで父と子と聖霊の名によって授けられた、そのように「言葉」が語られ、水の洗いをもってなされた「出来事」は、有効である、ということなのです。
 ですから歴史の教会では、緊急時には、驚くべきことに、未信者からの洗礼であっても有効である、という判断さえしてきています。それはひたすら、宣教は人間ではなく神さまの御業なのだとの立場を大切にしてきた表れである、と思われます。