静まりの時 2021年12月28日(火)
「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」
(ヨハネの黙示録3・19、新改訳2017)
ヨブ記などを見ると、人生に起こる苦しみを、神さまからの罰(ばち)と理解するのではなく、懲らしめと理解する道が語られています。神さまは、父が子をに向かうように「叱ったり懲らしめたり」するお方である、というのです。神さまは、運命や法則のような存在ではなく、愛なる人格をお持ちのお方なのです。
信仰は、この神さまとともに歩むということなので、その信仰生活には、かならず、神さまが「叱ったり懲らしめたり」されているのだな、ということごとが起こります。あるいは神さまが叱っていてくださるのだ、懲らしめていてくださるのだ、ということを思うときがあるということですね。
神さまが信仰者を叱ったり懲らしめたりなさる目的は「熱心に悔い改める」者となるということでしょう。滅びに向かって突き進んでいる私たちを、大声で呼び止め、身を挺してその道を阻もうとしてくださる。私たちの滅びに向かうスピードが速ければ速いほど、それをストップしてくださるのですから、神さまも命がけです。私たちも、方向変換するのは並大抵のことではなく、ときに手痛い経験もします。こんな真剣勝負のときが信仰生活には訪れてくるということでしょう。
スポルジョンは「病がかえって健康を与え、失敗が利益をもたらしてくれた・・・」(スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、512頁ff)と記しています。病や失敗は、決して神さまからの罰(ばち)ではありません。私たちがよりよい人生を送るための、神さまの愛のお働きの中にある大切な時なのだと思います。
それにしても病は嫌なものですし、失敗はできるだけ避けたいものです。いやしのために、そしていつも良い道に歩めるようにと祈りたいと思いますね。
昨日は大雪で各地で被害が出た一日でした。私は一日年末調整の作業に取り組んでいました。時間はかかりますが、今年も滞りなく作業は進みました。ほぼめどがたち感謝です。あとは法定調書の作成、税務署、市町村への報告書などの提出で一段落です。
妻が雪に埋もれたクリスマスデコレーションがいい感じで光っているのを見つけ皆さんにお分かちしていました。このブログにも掲載させていただきます。
先日のキャンドル・サービスでは八木重吉の詩に教会の兄弟がメロディーをつけ、それを特別賛美で歌ってくださいました。私の手もとの八木重吉詩集に以下の詩がありました。
何はともあれ
私は死ぬる瞬間まで
生きる! という努力を捨てない(八木重吉、『八木重吉詩集』、鈴木亨編、白鳳社、昭和42年12月10日初版発行、昭和58年12月20日新装版発行、169頁)
神さまに生かされているのだから、どんな状態でも、状況でも、その命を大切にしよう、という感じでしょうか。
もうひとつ。
冬日(ふゆび)
冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる(前掲書、74頁)