静まりの時 2021年12月4日(土)
12月1日のデボーションテキストに記されていた聖句は第一ペテロ1章6節でした。
「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、」
(第一ペテロ1章6節、新改訳2017)
この聖句に続いて記されていたスポルジョンの言葉に以下のような文章がありました。
「試練は神が与え、そして、神が取り除いてくださいます。」
そして
「ある親しい友人が心に大変な痛みがあったにもかかわらず、それでも喜びに満ち、楽しんでいる一人の老人のことを話してくれました。私はそのことを聞いて、かえって自分に失望し、大変恥ずかしくなったのです。どうしたらいいのかわからなくなりました。」
(スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、472頁ff)
今年読んできたスポルジョンデボーションテキストは、少し私には理解できなかったところもあったのですが、このような文章を読むと、非常に正直な文章がつづられているな、という印象を持ち嬉しくなります。
いわゆる立派な信仰というのは、ときに励ましになり、ときに励ましにならないものです。
試練の中にも喜びをもって生きるというのは、信仰者に与えられている恵みの道だと思いますが、それは他者からの言葉によって生まれるとは限らない、たとえ他者からの言葉であっても、それが神さまからの言葉なのだ、と信仰を持って受け入れることができるか、ということがポイントのように思えます。
投手がストライクゾーンに投げてくれても、それを捕手が受け止められるかどうかは少し別の問題である、ということでしょうか。
上記のスポルジョンの二つ目の引用の言葉は、確かにストライクゾーンに投げられた好球だと思うのですが、あまりに剛(豪)速球なので、捕手の状態によってははじき返してしまうか、手がしびれて受け止めきれない、ということが起こるということでしょうか。
まあ、しかし神さまがよいときによい信仰を備えてくださいますから、その時は受け止めきれなくても、いつの日か、ああ、そういうことだったのだな、ということもあるでしょう。
語る方は、よくよく考え祈って語るべきではある、と思いますが、ときにはじき返されてもがっかりせず、神さまの時にゆだねることがよいでしょう。また聞く方は、とりあえず受け止める(受けておくけれども、心の中までは入らない)ことにしておいて、心の状態が整えばいつか受け容れる(聞けるようになる)こともできるだろうと、やわらかくその時を過ごしていけばよいでしょう。
などと、思いました。
12月2日の木曜日は、インフルエンザのワクチン接種に、隣の病院に行きました。院長先生が接種してくださいましたが、今回の私の病気のことなどいろいろと世間話もしてくださいました。新型コロナワクチンほどの副反応はありませんが、全くないということでもなく、この日は少ししんどくて早々に床に就きました。