静まりの時 2021年10月12日(火)
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」(新共同訳)
(テサロニケの信徒への手紙4章13~15節)
この御言葉によって慰めを得てください。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、402頁ff
この聖句は、主イエスさまのご再臨の時の様子を記していると理解すべきかもしれませんが、それ以上に、愛する者を失った悲しみの中にある兄弟姉妹への慰めの言葉として理解することがよいのではないかと思います。
死を迎えた愛する人たちのことを「眠りについた人たち」と語ります。眠っているのだ、と語るのです。これはイエスさまがラザロを生き返らせたときに、イエスさまご自身が死んだラザロについて表現された言葉です。(ヨハネ11章11節~)。
イエスさまが、ラザロは眠っているのだ、と言われたとき、弟子たちは、眠っているのならば助かるでしょう、と言いました。それに対してイエスさまは、眠っているといったけれども「睡眠」のことではない、ラザロは死んだのだ、と言い直されました。聖書もそのことを理解しています(13節)。つまり聖書の中で「眠っている」という表現は、文字通り睡眠を表しているのではなく、死んだということを表現している言葉である、ではどうしてそのように表現したのか、それが大切なところでしょう。イエスさまは死んだということを眠ったという言葉で表現することによっていったい何を語られたのでしょうか。またこのテサロニケへの手紙で、同じく死んだ人たちのことを、眠った人たちと表現したパウロはいったい何を語ったのでしょうか。
私は限りなく優しい慰めの言葉を語ったのではないかと思います。
慰めというと、単なる慰め、中身がない、ととらえられるかもしれませんが、たとえば聖霊さまのことを、聖書は慰め主というわけですから、慰めは大切な意味を持った言葉です。ドイツ語でゼールゾルゲ(魂への配慮、牧会)ですね。
「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」。すなわち、もし自分たちが生きて再臨の日を迎えたとしたら、そこで先に死んだ人たちの復活を、私たちは目撃することになる、というのです。そして生きている者と死んだ者とがともに主に御前に引き上げていただける、というのです。別々ではない、というのです。
この「先になる」という言葉ですが、新改訳第3版では「優先する」と訳されていました。つまり時間的な「先」というだけではなく、重要性、到達度、といった意味合いを含んでいる言葉であるということです。もちろん先に死んだ人たちが、今生きている者たちよりも大切である、ということではありません。死んでしまった人たちを、どちらかというと忘れてしまう、後回しにしてしまうところで「いやそうではなく大切な存在なんだ」ということを言おうとしているのだと思います。先に死んだ人たちに対しても、主にある者たちはいつも「希望を持つ」(13節)人びとである、ということです。
「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という聖句ですが、パウロはこの時点で、再臨の日に自分たちが「生き残」っている、ということを信じていたように読めます。しかし実際には再臨は来ずパウロたちも死にました。また再臨は現在もまだ来ていません。それは一体何を意味しているのでしょうか。
私は、パウロたちは「今この瞬間も再臨が来る」ということを信じて生きていた、ということだと思います。つまりこの聖句は再臨の「時期」を語っている言葉ではなく、信仰者の「心構え」を語っている言葉ではないか、と思うのです。主にある者は、今この瞬間も主の再臨があるかもしれない、ということを心して生きている、そういう意味で、瞬間瞬間を喜びと感謝をもって大切に生きる、今の時は、明日の準備の時というのではない、すべての「今」が本番である、ということです。ですから、また人との出会いも一期一会の心を忘れない、ということではないかと思います。
昨日は午前にゆっくりと自転車で銀行をまわり田んぼ道を選んで帰ってきました。八日市の町は平坦なようで少し琵琶湖側に向かって傾斜があるようです。銀行は教会よりも琵琶湖側にありますので、行きはよいよい、帰りはちょっとしんどい、という感じですね。元気なころにはあまり意識しなかったことです。午後は久しぶりに妻が母の買い物に付き合う日で、ついていきました。母は10年ほど前に運転免許を返納した(させた)のですが相変わらず元気で、きっと世界が滅びても母だけは生き残っているような気がします。
いずれも調子に乗りつつ図に乗らずゆっくりと身体を動かすことによって、健やかに過ごすことができました。夕刻のウォーキング。久しぶりに雲の多い空の下をいつも通り妻と歩きました。
今朝のラジオからは、カール・ハインリヒ・グラウンという人が作曲した受難曲が流れていました。案内は加藤拓未。クリスチャンですね。