永遠の神の愛によって

静まりの時 2021年10月2日(土)

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」

(エフェソの信徒への手紙4章15節)

・・・勇気を出しなさい。命と死の問題はすでに解決され、確かなものとされています。なぜなら、永遠の神の愛によってそのことが定められているからです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、388頁f

教会の頭はキリストである、キリスト者はそのキリストを頭として一つである、キリストにあって一つであるということは、集うキリスト者がみな同じ顔、同じ人間になることではなく、それぞれの召しにふさわしく歩むこと、そのためには互いに謙遜と忍耐をもって、一つになるように熱心に努力すること、そのようなことがこのエフェソ4章には語られていると思います。
一致するということは、何の努力もせず自動的にできることではなく、互いに、その違いを受け入れ合い、謙遜、柔和、寛容、そして愛が必要である、教会はそれを働かせるところであり、また学ぶところでもある、それが「信仰の成長」ということである、というのでしょう。聖書の語る信仰の成長とは、何よりも愛の成長である、ということでしょう。
教会は、さまざまな面で成長ということを大切なテーマとすべきであると思います。一人でも多くの人が救われ、一人でも多くの人が慰めと励ましを受けるということは大切なことです。そのために教会は存在しているといってもよいでしょう。
ですから人数が増えること、活動規模が拡大すること、施設や組織が整えられることは大切なことです。そのためにさまざまな賜物が用いられていくこと。預言の賜物、教える賜物、施しの賜物、異言の賜物、いやしの賜物、などなど。大切なことでしょう。しかし罪人である人間はそれらを、愛失くしても成し遂げてしまえるものなのです。
愛がなく成長が起こるということがあるのです。しかしそれはいわゆる宗教団体の成長ではありますが、キリストを頭とした教会の成長とは言えないというのです。少々出来が悪くても、そこに謙遜、柔和、寛容、愛を学ぶことであれば、教会の成長、信仰の成長がある、ということです。イエスさまは喜んでいてくださる、ということです。

人間はみな違いを持っています。信仰者と言えどもその違いのある者が一つになろうとすると、さまざまな面で難しさを覚えることになるでしょう。そこで忍耐や寛容、柔和、というと、なにか忖度をしたり空気を読んだりということが想像されますが、そういうことではなく、頭がキリストであるのですから、キリストにおける真理とは一体なんであるのかを、ともに学ぶということなのだと思います。
新共同訳で「愛に根ざして真理を語り」と訳されていますが、この「根ざして」という言葉は、直訳的には他の翻訳聖書のように「愛をもって」の「もって」と訳すべきことばです。昨日の聖句の新共同訳の「キリストに結ばれて」と訳されていた言葉と同じ言葉です。
愛をもって語るというのですが、それは何かニコニコして語るとか、奥歯にものを挟んだような語り方をするということではなく、愛に根ざして語る、語っている言葉が時に厳しく響くことがあったとしても、その根底に愛がある、あるいは祈りがある、十字架がある、十字架を背負う覚悟がある、そうして語られる言葉、それが互いに一つになる道である、ということでしょう。そうしてこそ教会の成長が実現する、互いの信仰の成長があるということでしょう。
互いに道半ばですが、主におすがりしながら教会の一つの枝として喜びをもってお仕えしていきたいと思います。

一昨日のしんどさから解放され昨日は健やかに一日を過ごしました。印刷作業も順調に終えました。印刷機のランニングコストを少しでも安くするために、カウント料金が輪転機よりも安く設定された複合機一台にしました。交換時期にちょうど私が入院したので、妻はてんやわんやでした(笑)。輪転機のときには製版作業がありますので少し手間がかかります。それが今回の交換でなくなり、従来よりも簡単でスピーディに作業が進むようになりました。牧師室の階段の上り下りも一回少なくなりました。感謝です。

昨日も夕刻のウォーキングに妻と出かけることができました。

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