聖霊があなたがたキリスト者に積極的かつ有効な信仰を生み出してくださる

静まりの時 2021年9月26日(日)

「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」

(ガラテヤの信徒への手紙3章11節)

試練、困難、苦しみ、あるいは激しい労働の中にあっても、信仰があなたを支える力強いエネルギーの源となります。聖霊があなたがたキリスト者に積極的かつ有効な信仰を生み出してくださるからです。・・・

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、380頁f

「正しい者」。この正しさは神さまとの関係の正しさである、と説明されます。道徳的、倫理的に正しいというのではなく、神さまとの関係の正しさであるというのです。
むかしのやくざ映画などで「おまえさんには何の恨みもござんせんが、渡世の義理で、おいのち頂戴しやす」というセリフがあったと思いますが、そこで使われている「義理」という言葉の「義」です。人を殺すということは、誉められたことではありませんし、倫理的にも道徳的にも「正しくない」ことです。しかしここで追及しようとしている「正しさ」は「渡世の義理」、すなわち現在わらじをあずけている親分との関係ですね。この「義」。それがこの聖句に書かれている「義」である、というのです。
イエスさまを信じても、私たちは瞬間的に道徳的・臨時的に正しい人になるわけではありません。しかし信仰によって神さまとの関係は瞬間的に正しくされる、と聖書は語るのです。
こうして信仰に生きるならば、私たちはみな神さまとの関係を正しくされて、神さまの子となり、永遠のいのちに生きるようになります。大切なことは、まことの「親分」であるイエスさまを信じること、信頼することです。

この「義と認められる」、義認、ラテン語で「Justificatio」の訳ですが、義認と訳されるだけではなく「義化」あるいは「成義」とも訳されてきた言葉です。このガラテヤの聖句も新改訳では「義と認めらる」と訳していますが、新共同訳では「義とされる」と訳しています。
また「義人は信仰によって生きる」という訳も、口語訳などでは「信仰による義人は生きる」と訳されています。微妙な違いですが、ここに込められている神さまの御思いは、中身は罪びとだけれども、信仰を持った者は神さまから正しい人と認めていただける、というだけではなく、信仰に生きる者は中身も義人とされていく、文字通り倫理的にも、道徳的にも正しい人に造り替えられていく、聖化されていく、ということも含まれているのだ、ということだと思います。ヤコブの手紙に「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう」(ヤコブ2・24)とあるように・・・。

何の功績もなく、罪を赦してくださったこと。何の返済もすることなく、莫大な負債を帳消しにして下さったこと。身代わりに神の子が命をささげてくださったこと。それをいわゆる「機械的に」信じるというのではなく、イエスさまを人格者として、つまりまことの神さまでありながら、人となってくださったお方として、愛すること。信じるということと愛するということ。そして友となってくださった方と日々歩むことを何よりの喜びとすること。そのような信仰に生きるならば、自分が罪人のまま開き直って生きることはできないと思います。もしできてしまうとすれば「義人は信仰によって生きる」という聖句に支えられているかもしれませんが、「信仰による義人は生きる」という聖句には生きていないことになるのではないか、と思います。

義と認められたので、義化、聖化に生きる道が始まりました。その道を形づくるのは「礼拝」です。初代教会は毎日礼拝をしました。神さまを賛美し、祈りをし、御言葉を、そして聖餐を分かち合いました。そうして主にある者は、みな義化、聖化、成義への道に歩み、天の御国への準備をしていくのです。

私たちは講壇を預かる者は、兄弟姉妹とともに礼拝をささげます。その中でみ言葉を語る者としていただいたのは、信仰にも人間的にも人よりまさっているからではありません。そのように召されたからです。自分の足りなさや弱さを超えて神さまに召していただいた、ただその一点で講壇に立つのです。気の利いたお話しや、感動的な講話をするためではありません。自分の思想や勉強の成果を発表することでもありません。聖書の言葉を語るためです。そしてその聖書の言葉に、生かされていることの喜びを語るのです。長い話は必要ありません。人の反応を気にする必要もありません。ただイエスさまに感謝を献げながら、聖書の御言葉の喜びを語るのです。なんと幸いな役割をいただいたことでしょう。勇気をもって今日も講壇に立ちましょう。諸教会の祝福を祈っています。