静まりの時 2021年9月24日(金)
使徒パウロがごく単純に、そして、自然な意味においてこれらの教えを理解したとき、この教えがどれほど彼に慰めを与えたかについて、あなたは理解できますか。
主は、「おお、パウロよ、わたしは異邦人の間でわたしの名を証しするためにあなたを選ばれた器とした。それで十分ではないか。世界が造られる前からあなたを愛し、尊い血をもってあなたを贖った。冒瀆者だったときにあなたを召し、その心を変え、わたしを愛する者にした。そして、今日まであなたを支えてきたではないか。だから、無限の愛をもって、最後まであなたを支えよう。わたしの愛はあなたに対して十分なのだ。この苦難から逃れようと求めてはならない。弱さや試練から救い出されることを求めてはならない。それらによって、わたしの恵みを十分に楽しむことができるようになるのだから」と言われるはずです。C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、377頁f
「弱いときにこそ強い」という言葉は、それ自体矛盾しているのですが、この矛盾こそキリスト者の信仰を、そして信仰生活を豊かにあらわしていると思います。パウロのいう弱さとは「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」のことです。新改訳では「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」と訳されています。日々の生活がスムーズに思い通りに進んでいくというのではないのです。自らの弱さもあって、また人びとの愛のなさ、現実の厳しさもあって、うまく行かないのです。行き詰まるです。こんなはずではなかったのに、ということが連続して襲ってくるのです。主イエスさまに出会うまでは、そのようなときは絶望するしかなかったのです。だれかを、あるいは人生を呪うしかなかったのです。しかし主イエスさまに出会ってからは、そのようなときも失われることのない喜びに生きる、希望に生きる者とされましたのです。いえそのようなときに「こそ」希望に生きる者とされたのです。希望の材料がたくさん確認できるところで希望に生きるというのであれば、それは主イエスさまに出会わなくともできることでしょう。しかし主イエスさまに出会った者は、あるいは日々主イエスさまに出会い続ける者は、さまざまな「弱さ」のなかでこそ、希望に生きる、満足して生きることができる者なのです。それが弱いときにこそ、強いと告白するパウロの信仰、聖書の語る信仰である、ということでしょう。
新共同訳で「満足している」という言葉は、新改訳では「喜んでいる」と訳されています。原文のギリシャ語では「エウドコー(エウドケオー)」で「喜ぶ、満足する、~が気に入る、好む、同意する、決心する」という意味で、同じ語源の名詞形になると「善意」(ピリピ1・15)とも訳される言葉です。
さまざまな弱さのなかで満足している、とパウロは言うのです。そこに神さまの「善意」があると言い、もうこれ以上何もいらない、十分に豊かだ、というのです。
今回病気になって、そこに神さまの「善意」を発見するということ。それはそのように感じられるという感情の問題ではなく、そのように決心する、決意するという意志(意思)の問題である、ということでしょう。感じられるかどうかではなく、そのように選択して生きること。そう決意すると、この人生、捨てたものではない、とあらためて感じるようになります。決意が感情を生み出すのです。
さて昨日も健やかな一日を過ごし、プラモデルのバイクづくりも順調に進んでいます。自動車に比べて細かい部品が多いのですが、いろいろとバイクの構造を勉強することができます。玉村豊男が絵を描くようになって、病状への不安や心配を考えることから解放された、というようなことを書いていましたが、確かに何かに集中すると、いろいろなことから自由にされますね。夕刻のウォーキングも、いつもは私の方から出かけることを促すのですが、昨日はプラモデル作りに集中して時間を忘れていたので、妻の方から「そろそろ行こか~」と声をかけていただきました。
病気になったとき、沢山の方にご心配、お見舞いの言葉をいただいたのですが、その週はオリンピックの関係で休日になったこともあり、いく人かの方が遠路駆けつけ妻を訪ねてくださいました。また退院後は団体会計を預かっていることで各教会の会計さんからのお見舞いの言葉が届きます。いずれも短い文面の中にあたたかい気持ちが詰まっていて励まされます。また妻がフェイスブックに私の病状を掲載(?)しことから、思いがけない方からの短いメールも妻の方に届いたりします。先日は、大学時に共に学んだ、現在は関東の方でデザインの仕事をしている友人から、病状を気遣うメールをいただきました。ありがたいことです。あたたかい言葉には、人をいやす力がありますね。
夕刻ウォーキングでは、ここしばらく彼岸花(曼殊沙華)が美しく咲いています。教会の花壇には、教会の方が植えてくださった白い彼岸花が咲いています。これはまた美しい花です。妻が育てている金木犀(少し花色が薄いの銀木犀か?)も花を開き始めました。秋の香りに季節の移ろいを感じます。
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、主イエスさまのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12・10)
ひこうき雲・・・。