身の回りに起こる苦難という第二原因だけに注目してはなりません。深遠な第一原因に目を注いでください。すべてのことの中心におられるのは神であり、あなたの父であり、無限に善なる主なる神です。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、313頁f
2021年8月9日(月)
金曜日の退院後、7月の末にすべき団体会計作業で5時間ほど机に座り、土曜日は病院に支払いに妻とドライブし、夕刻に少し歩こうとしたのですが、10分ほどでしんどくなって帰宅することになりました。昨日の日曜日は、午後に長女夫婦が「室内自転車」を買ってきてくれて、病院でやっていたぐらいの負荷と時間でリハビリテーションを行いました。それでだと思いますが、夕刻にしんどくなり、それがあまりにしんどいので、妻に病院に電話をかけてもらいました。そうこうしているうちに、しんどさが和らぎ、診察には至りませんでしたが、一時は救急車を呼ぼうかというほどの苦しさでした。電話に出てくださった看護師さんは丁寧にやさしく、お医者さんとも相談して状況を聞いてくださいました。ちょっといちびって無理をしてしまい、お騒がせしたなと、反省しています。次週の木曜日に診察に行くのですが、少し恥ずかしいな、と思っています。
狭心症の段階でカテーテルによる処置がなされていたならばダメージはなかったのですが、心筋梗塞を発症して数時間後の処置となったので、心筋の一部に壊死が起こり、動いていない部分と動きの鈍くなった部分が生まれてしまいました。これは再生することなく、これから生涯付き合っていくことになります。今朝も朝食後はしんどくて2時間ほど横になりました。その後はこうしてPCに向かうことができました。今日は、ゆっくりと一日を過ごそうと思います。
会計さんが午前中教会会計の奉仕に頑張っていてくださいました。感謝です。
入院中はこのブログの投稿ができませんでした。退院後さっそく再開したのですが、今日は牧師室の階段を上ることができず、牧師館の方にデボーションテキストを妻に持ってきてもらって書いています。
下記の主イエスさまのゲツセマネの祈りですが、救いにあずかった者の祈りもであり、また救われているかどうかの指標ともなる祈りなのだと思います。みこころがなるように、という祈りが尊いのは、そのまえに、できることならこの杯を去らせてほしいとの祈りがあるからです。もしこのできることならこの杯を去らせてほしい、との祈りのないところで、みこころがなりますようにと祈るとすれば、それは、みこころを求めているといいつつ、絶対他者である神さまのみこころを求めていることではなく、結局自分のエゴの延長線上にある願望を求めているだけだからです。第一原因である神さまから目を離さないということは、つねに絶対他者であるお方から目を離さないということなのです。そうありたいと思います。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22・42)