会ったこともない見知らぬ人であれば、その同情心に感動するかもしれません。しかし、友人であれば慎重に悲痛を隠しているその心の秘密まで詮索することになるでしょう。
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もし真剣な黙想が神の御言葉による豊かな慰めへと、また喜びへと導かれるものでなかったとすれば、この詩篇記者は苦悩の中で滅びたかもしれないことを十分にわかっていたのです。C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、153頁ff
2021年4月16日(金)
聖書の言葉を「楽しみ」とすることが、黙想の目的です。聖書の言葉を思い巡らしながら、その言葉を楽しみ、それによって慰めや喜びをいただくのです。
人間を真に慰め励ますことが出来るのは、聖書の言葉です。もちろん人間の言葉もおおいに慰めや励ましを与えます。しかしそうでないこともあります。スポルジョンは自分の言葉が、人びとを慰め励ますばかりではないことをよくわきまえていたようです。「見知らぬ人」へ語る言葉と「友人」へ語る言葉は、その響きに違いがあると語ります。
「あなたの律法を楽しみとしていなければ この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」(詩編119.92)