静まりの時
- テーマ:主を知ること
- 聖書箇所:ホセア11・1~9
- 日付:2026年09月21日(月)
エフライムよ。わたしはどうして
あなたを引き渡すことができるだろうか。
イスラエルよ。どうして
あなたを見捨てることができるだろうか。
どうしてあなたを
アデマのように引き渡すことができるだろうか。
どうしてあなたを
ツェボイムのようにすることができるだろうか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは怒りを燃やして
再びエフライムを滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人ではなく、
あなたがたのうちにいる聖なる者だ。
わたしは町に入ることはしない。(8,9)
私たちへのあわれみで胸が熱くなっておられる主。主があわれみ深いのは、主がまことの神であって人ではなく、私たちのうちにいてくださる聖なるお方だからである、と聖書は語ります。
神というのはいったいどういうお方であるのか。あるいはどういうお方が神である、と言えるのか。数ある性質の中の一つとしてあわれみをお持ちになっている、というだけでなく、神はあわれみそのものである。そう語るのだと思います。
4 わたしは人間の綱、愛の絆で
彼らを引いてきた。
わたしは彼らにとって
あごの口籠を外す者のようになり、
彼らに手を伸ばして食べさせてきた。
神さまは愛の絆で私たちを導いてくださいます。さまざまな綱で強制的に引くこともできたと思いますが、そうはなさいません。主に導かれることは、愛の絆で導かれることですから、私たちにとってそれは喜びであり、心地よいことです。
「彼らに手を伸ばして食べさせた」。これは他の訳では少し違うようです。
「4 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。」(新共同訳)
「4 私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き 彼らの顎から軛を外す者のようになり 身をかがめて食べ物を与えた。」(共同訳2018)
「手を伸ばして」はいずれも「身をかがめて」と訳されています。
食べ物を与えるのに、ただ手を伸ばされた、というのではなく、そのお身体をかがめてくださった、と訳されています。受肉のキリストの姿がここに刻まれています。神であって人ではないお方が、まことの人となって私たちのところに来てくださいました。あわれみそのものが、私たちのあいだに住んでくださったのです。