あなたがたの神、主に対しては、そのように礼拝してはならない

静まりの時

  • テーマ:神の家
  • 聖書箇所:申命記12・1~12
  • 日付:2026年06月17日(水)

4 あなたがたの神、主に対しては、そのように礼拝してはならない。
5 ただ、あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

カナンの地で行われていた偶像礼拝を一掃し、まことの神さまへの礼拝が始まります。まことの神さまへの礼拝とはどのような礼拝であるのか。

モーセはここで偶像礼拝を指して「そのように礼拝してはならない」と語りました。それらを礼拝してはならない、ではなく、そのように、すなわち偶像礼拝を礼拝するように礼拝してはならない、といったのです。礼拝する対象ではなく礼拝における行い方が問題とされています。

では、偶像礼拝に行っていたような礼拝とはどのような礼拝であったのか。

8 あなたがたは、私たちが今日ここでしているようにしてはならない。それぞれが自分の目にかなうことをしている。

他の訳では以下の通り。

8 あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。(新共同訳)

8 あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。(共同訳2018)

自分が正しいと思うことを行う、そのようにして礼拝も自分が正しいと思うことを行う、自分の目にかなうことを行う。それがここでは偶像礼拝に対して行なっていた礼拝のことです。

それに対して、まことの神さまに対して礼拝をささげるとは、どのような礼拝をすることなのか。

5 ただ、あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

「そこへ行かなければならない」。自分の目にかなうことを行うのではなく、自分の立っている所から移動して、神さまが示される場所に行って礼拝をささげなければならない。まことの礼拝とは、移動をする、がポイントです。

物理的に自らの身体を移動する、ことが言われているのですが、身体を移動していても依然心が移動していない、自分の目にかなうことを行なおうとしている、というのであれば、偶像礼拝に行っていたことと同じことを行なっているだけです。自分の目にかなうことから解き放たれる。それが「そこへ行く」ことです。たとえ身体的には移動できなくても、礼拝において心をしっかりと移動する。それは、自分の目にかなうことから解き放たれる、自分が正しいと思うことから自由になる、ということです。