みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました

静まりの時

  • テーマ:聖霊に満たされる
  • 聖書箇所:ヘブル2・1~4
  • 日付:2026年05月27日(水)

こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。(1)

私たちは弱く、つねに押し流されてしまいそうになります。押し流されないようにするためには「聞いたことを、ますますしっかりと心に留める」ことであると聖書は語ります。教会で語られる御言葉を、しっかりと心に留めてさえいれば流されることはありません。

もし私たちが流されてしまうとすれば、聞いたことではないことを心に留めてしまっているからかもしれません。聞いたことではないこと。すなわちこの世の語るさまざまな言葉に耳を傾け、それに心を留めてしまうと、簡単に流されてしまいます。

御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。(2,3a)

救いをないがしろにしてしまう。せっかく救いをいただいたのに、それをないがしろにしてしまう。新共同訳では「むとんちゃくでいる」と訳されていました。「ないがしろ」を漢字で書くと「蔑ろ」。軽蔑の蔑です。漢字源では、ただれた目、よく見えない目、と解説がありました。救われた、ということを、ちゃんと見ない、ということ。そのようにしてしまうならば、処罰を逃れることはできない、と聖書は語ります。一度救いを得て、それを手離してしまうならば、そこにはもはや救いはない、と大変厳しい言葉ですが、ヘブル書にはいくつかこのような意味の文章がでてくるように思います。おそらく初代教会の戦いの一つだったのだと思います。教会へのチャレンジは、教会の外からだけではなく、内からもやってきます。

この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(3b,4)

救いは、これ以上ないほどに確かなものです。神さまによって語られ、神さまによって証ししてくださいました。救いは、私が信じた、ということで実現するのですが、その私が信じたということも神さまの御手の中にありました。