私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです

静まりの時 2022年12月02日(金)

第二コリント2・4~17

12 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、

13 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

16 滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。

17 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(第二コリント2・4~17)

 「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。・・・」(4~11)

あまりはっきりと書かれているわけではないと思いますが、推測すると、教会において重大な罪を犯した人がいて、パウロはその人への指導のために、かなり厳しい内容の手紙を書いた、ということでしょう。そしてそれは、教会全体にさまざまな痛みを生み出すこととなるような手紙であった、ということでしょう。その手紙を「兄弟テトス」に託してコリントの教会に送ったので、手紙がどのように受け取られたのかが気がかりであった、それで一日も早く手紙を届けてくれたテトスに会って、コリントの教会の様子を知りたかった、ということでしょう。

教会には、神さまの権威によって築かれる秩序があります。愛と自由、赦しのところですが、秩序をないがしろにされるところではありません。むしろ神さまの秩序によって愛と自由、赦しは成り立つのです。一人の放縦によって、他の多くの人が悲しむことであるならば、その一人の人の放縦を戒めなければなりません。ですからパウロは厳しい手紙を書くことになったのだと思います。

このような「戒規」が教会にはあるのです。しかしいたずらにすることではありません。またそれは人を滅ぼすためにすることではありません。再び悔い改めて新しく生きる道をひらくためです。パウロは、涙ながらに手紙を書いた、と語りました。相当な覚悟と祈りをもって書き送ったのだと思います。

問題は、その手紙がどのように受けとめられたか。パウロへの反発によって事態は深刻になって行ったのか、より大きな問題へと発展してしまったのか。これも文章から十分に読み取ることが出来るわけではないと思いますが、おそらくコリントの教会は、パウロの手紙をしっかりと受け止めたのだと思います。また勧告、戒めを受けた者も神さまの前に悔い改めたのだと思います。ですからそこにパウロからの赦しと慰めの言葉が続いたのだと思います。

もう30年ほど前のことですが、東南アジアから学生たちが夏休みを短期宣教に献げて来日してくれたことがありました。その数人の学生が加わってのある小さな聖書の学び会の中でのこと。ひとりの高齢の兄弟がいきなり土下座をして彼らのまえに謝罪をし始めたのです。びっくりしました。その高齢の兄弟は、戦前には近衛兵として天皇陛下の警備についておられました。戦争が始まり戦況が悪化すると東南アジアに派兵されたそうです。戦後は自衛隊の教官として歩んでこられました。根っからの軍人です。ある時、戦争中に部下であったという方がはるばる訪ねて来られたことがありました。厳しくも誠実で真実の優しさをもった軍人だったのだろうと想像させる出来事でした。南米で伝道者となられた親戚の方からの伝道によって戦後50歳の時にイエスさまを信じ自らの罪を悔い改めてキリスト者となられました。その兄弟が、この時土下座をして戦争時の日本の罪を悔い改められたのです。日本の国の在り方によって与えてしまった苦しみや悲しみについて謝罪されたのです。それを自分の罪のように謝罪されたのです。

その時一人の学生が、静かに聖書を読み始めました。その個所が第二コリント2章6,7節でした。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。(6,7)

自分は日本に行くといったとき、家族の中には反対した者もいた、しかしこうして日本に来ることが出来た、これからは将来に向かってともに生きていく国同士であってほしい、というようなことを語ってくれました。光が射したような気がしました。

赦しが豊かに語られたのです。それは真実の悔い改めのところに語られたのです。真実の悔い改めがなされたからこそ、そこで語られる赦しが真実のものとなったのです。悔い改めのないところに赦しが語られてしまったならば、それは赦しではなく「許し」であって、勧告や戒規を受けなければならない言動が「許された」ことになってしまいます。そのような偽物の許しが語られ始めたならば、そこはもはやイエスさまの教会ではありません。偽りの許しを語ることや、真実の赦しを語らないことは、サタンに乗じられることでしょう。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

パウロはコリントの教会の受け止め方を聞いて安心したのだと思います。そしてあらためて言うのです。

神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。(14,15)

「凱旋の行列」。私たちはイエスさまと肩を並べて歩む兵隊ではありません。イエスさまに捕らえられた捕虜です。奴隷となった者です。イエスさまの奴隷となった私たちこそ、いたるところで「キリストを知る知識の香り」を放ってくださるのです。まるで神にでもなったかのように胸を張ってイエスさまの横に並ぶ者は、自分の傲慢の悪臭を放つことはあっても「神に献げられた芳しい香り」を放つことはありません。イエスさまが右に行かれれば、右に引いて行かれ、左に行かれれば、左に引いて行かれる、そのようなイエスさまに従順な捕虜、奴隷、しもべだからこそ、イエスさまの香りを放つこととなるのです。

あたたかな晩秋でしたが、ここにきて寒くなりました。軽バンのタイヤを冬用に交換してもらいました。病気になる前は、タイヤ交換もオイル交換も自分で行っていたのですが、病気以降はお店でやってもらうことになりました。幸い近くに親切なタイヤ屋さんがあって感謝です。

今日も喜びと感謝をもって一日を過ごしたいと思います。いただきものの干し柿を食べながら・・・。かなり甘い干し柿ですが、さらに甘さが増すかと部屋に干してみました。

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