パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです

静まりの時 2022年11月05日(土)
第一コリント10・14~22

14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。
15 私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。
16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。
19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
21 あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。
22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。
(第一コリント10・14~22)

 コリントの教会は、偶像に囲まれたような教会だったのだと思います。町には偶像にささげられた肉が販売されています。庶民はみなそれを食べなければなりません。教会では、それを食べることの是非が議論されたことでしょう。食べてはいけないという人と、それは仕方がないという人と、ときに激しい義論となったことでしょう。その間で、揺れ動く信徒が大勢いたことでしょう。
 パウロは偶像礼拝を避けなさい、といいました。偶像礼拝と戦いなさい、とか、立ち向かいなさい、と言ったのではありません。避けるということは、逃げるということです。
 偶像の肉を見て逃げるということでしょうか(笑)。そもそも偶像礼拝とは一体なんであるのか。パウロは「偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか」と言っていますので、簡単に言えば、そんな物には何の意味も力もないと言っているのでしょう。
 偶像礼拝とは、結局のところ自分を拝むことです。自分の願望、欲望を神とするということです。ですから偶像にささげられた肉に力があって、自分の願望を実現してくれるのだ、と思って食するならば、それは偶像礼拝でしょう。しかしそんなものは何の意味も力もないのですから、どうでもよいと思って平気で食するということも、気が引けるということもあるかもしれません。そうすると、家では偶像にささげられた肉を食しているのだけれども、教会では大っぴらに言いにくいので、それを隠している、どこか自分の信仰生活に自信がない、といったへんな信仰生活がなされることにもなったかもしれません。
 偶像を避けるということで、パウロの義論はどこに向かうのかというと、「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」とありますので、聖餐式のことを話し始めます。偶像を避ける、ということを言いつつ、礼拝のことを話し始めるのです。
 偶像にささげられた肉を食しているかいないか、ということよりも、礼拝をしっかりと献げているのならば、もはやキリストのいのちにあずかっているのだ、というのでしょう。キリストのいのちにあずかっているのだから、それはもはや偶像礼拝をしていることではない、偶像に関わっていることではない、というのでしょう。たとえ偶像にささげられた肉を食しているとしても、聖餐にあずかる者とされ、そして聖餐にあずかっているのならば、大丈夫、もはや、偶像礼拝者ではない、胸を張ってキリスト者として生きていけばよい、というのではないでしょうか。

「あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。」(21)

 これは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲んではいけません、と言っているのではありません。主の杯を飲んでいるなば、それはもう悪霊の杯を飲んでいることではないのだ、といっているのです。主の食卓にあすかりながら、悪霊の食卓にあずかってはいけません、と言っているのではありません。主の食卓にあずかっているならば、もはや悪霊の食卓にあずかっているものではないのだ、といっているのです。

 いやいやそれでは教会の中で、偶像にささげられた肉を食べるか食べないかで、いろいろな人がいてしまって、まとまりがつかない、分裂するのではないか、という心配もあったのかもしれません。パウロはいいます。「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから」。教会が一つであるというのは、一つのパンにあずかることで実現していることだ、ただ仲良しであるとか、同じ趣味であるとか、同じような考え方の人であるということで一つになる、ということではない、すでに聖餐式にあずかっているならば、それで一つなのだ、というのです。たとえば「私たちの教会は偶像礼拝にささげられたものは一切口にしないグループです、そうでない人は集団を乱すので、加わらないでください」ということではないのです。そのためには、お互いの立場を尊重する人にならなければなりません。相手を自分よりもすぐれた人と思う人でなければならないのです。自分の考えを人に押しつける人はちょっと難しいですね。

 竹森満佐一の説教集からこのところの文章を引用しましょう。

「われわれは、こうして教会生活をしているのですから、大勢いても、ひとつにまとまる必要がある、と考えております。そのために、いろいろな工夫をする教会もありましょう。しかし、ほんとうは、もし、聖餐によって、キリストのからだにあずかっていれば、それだけで、われわれは、もうひとつになっているのであります。お互いに名前も知らなくても、話をしたこともなくても、われわれは、もうひとつなのであります。それは、キリストのからだによることであり、それにもとづく信仰によることであります。キリストのからだにあずかることによって、ひとつにせられていることを信じるのであります。
 たびたび申しますように、これは、偶像への供え物の話からはじまっているのであります。それならば、偶像への供え物を食べるということと、聖餐においてパンと杯にあずかることとでは、ここに決定的なちがいがあることが分かってくる、と思います。偶像への供え物は、ただの供え物に過ぎない、しかしこのキリストという食物は、われわれをキリストのからだである教会にするのであります。そういう形において、偶像礼拝を避けるのであります。
 それならば、偶像礼拝を避けるのは、偶像について議論したり、偶像礼拝と何らかの意味で戦うことよりも、実は、キリストに救われて、そのからだである教会につらなることで、すでに偶像礼拝を避けていることになるのであります。
 だれが、このような戦い方を予想したでありましょうか。それは、戦いというよりは、信仰者の生き方であります。教会が、このような意味と力を持つものであること、聖餐が、どういう力を持つかということ、それを深く知ることが必要である、と思います。」

(竹森満佐一、『講解説教・コリント人への第一の手紙』、新教出版社、1988、358頁f)

 ということで、私たちはことさら聖餐式を大切にしたいと思います。また礼拝の大切な中心の一つが聖餐式であることを明確にするために、聖餐卓と講壇、司会者の位置を再考してみたいと思っています。

 昨日は綺麗な虹が見えました。小雨が横殴りに吹く中を散歩しました。(笑)

虹20221104