静まりの時 2022年2月18日(金)
ヘブル2・5~9
「・・・ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
(ヘブル2・9、新改訳2017)
6,7節に詩篇からの引用があります。その中の「人の子」ということばは、旧約聖書・詩篇の文脈のなかでは明らかに人間のことを指しています。しかしこのヘブル人への手紙のなかの引用の「人の子」は、イエスさまのことを指しています。聖書の言葉は、いわゆるマニュアル本ではなく、いのちのことばなので、こういうことが多々あります。ここに聖書の深さがあります。
イエスさまこそ、まことの死を味わって下さいました。私たち人間は自分の死を経験することができません。だれかの死を見ることはあります。しかしそれはどこまでも他者の死であって、自分の死ではありません。経験するということは、たとえば、ジェットコースターを経験したのですよ、というのは実際にジェットコースターに乗った者が言い得る言葉です。どんなに近くで見ていたとしても、自分が乗らない限りそれは経験ではありません。経験した者だけが、その恐怖やスリルを「味わった」ということができるでしょう。
もし死を経験した、というのならば、もはやこの世界にはいないのですから、その経験を語ることができません。味わったということを誰かに伝えることも、死を深く研究することもできません。そこに死の特殊性があると思います。あのジェットコースターはすごいスリルがあった、と言い得るのは、実際にジェットコースターに乗り、その後、再び地上に立った者だけでしょう。もし死を経験したということが言い得るのは、死んでそこから再び戻ってきた人だけでしょう。すなわち復活した者だけが、死について語り得る、死の恐怖、死の苦しみ、その絶望を語りえるのです。ですから人類はみな、依然、死の恐怖、苦しみ、その絶望を語ることができないのです。
死を経験することができない人間であるにもかかわらず、死を語る人のことばを信用してはなりません。死というのはこういうものですよ、などという人がいたら、あなたは経験したのですか、と問い返さなければなりません。戦争に若者たちを送るためか、死をいたずらに美化した映画や小説には、いつも懐疑的な視線を向けなければならないと思います。特攻隊で若くして死を迎えなければならなかった死は、もちろんそこには語り尽くすことのできない尊さがあるのだと思いますが、しかし現在の自爆テロとどのように違うのか、そう変わらないのではないか、という視点も大切ではないか、と思います。どんなに情けなくかっこわるくても、生きる道を選択することが、人間には大切だと思います。
死を経験できないにもかかわらず、いつか必ず死を迎えることが定められていて、そうして自らが死ぬものである、ということを知っているのも、また人間だけでしょう。だから死を経験していないにもかかわらず、死に向かう、ということに絶望を、そしてさまざまなことを考えることになります。そうして、本当の人間になっていきます。
しかしその道すがら、ともに歩み、手を取っていてくださるただ一人のお方がおられます。十字架の主イエスさま、そして復活の主イエスさまです。ですから私たちは、死を前にしても完全な絶望状態に陥ることは必要ありません。このお方がすでに死を味わって下さり、復活してくださったので、このお方において死は経験となりました。
「イエスのことは見ています」(9)。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
(第一コリント15・20)
昨日の午後から雪となり、今朝も少なからず積もりました。真冬に逆戻りした感じです。寒さは心不全患者には堪えますが、しかし昨年の秋に冷え込んだ時よりも、苦ではない感じがします。日々のウォーキングに加え、室内自転車の負荷も徐々に強くしての30分間が日課となり、腕立て伏せと腹筋も数回ではありますが耐えられるようになりましたので、体重の増加とともに筋肉量も増えているのだと思います。夜は相変わらず二回ほど目を覚ましますし、ふだんも急に力を入れることをすると、しばらく息が上がるのですが、まあこんなものかな、と思えるようになっています。ときおりの胸の違和感も、そういうものだ、と思うようになりました。