静まりの時 2022年1月15日(土)
「・・・長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。・・・」
(1テモテ4・11~16、新改訳2017)
按手とは、手を置く、という意味ですが、教会では、賜物を付与する、という意味を持っています。礼拝の終わりに祝祷がありますが、その時に牧師は手をあげます。それは、一種の按手です。ですから手のひらは会衆に向かっています。(ときおり、手を天に向けておられる牧師もおられますが、少し祝祷を別の意味で捕らえておられるのかもしれません)。
このテモテへの手紙の個所では、少し特別な按手、牧師、伝道者としての働きが委ねられるための按手が語られています。牧師、伝道者が、説教をしたり牧会の奉仕をしたりするのは、個人的な能力によるのでも経験によるのでもありません。長老たちによる按手、それによって付与された賜物によるのです。この賜物は長老によってなされる、つまり按手をかつて受けた人によって、そして、それが預言、つまり言葉によって付与されたものである、といいます。
この賜物が、按手によって、まるでリレーのバトンのように伝えられている、といことは、さかのぼるとイエスさまに行き着くのです。そうして教会は歴史を超えて一つのからだ、キリストのからだとして成長していきます。
「軽んじてはなりません」。テモテは軽んじてしまいそうになっていたのでしょうか。確かに牧師や伝道者は、自分の足りなさの現実を見ると、本当に自分には賜物が与えられたのだろうか、と不安になります。しかしそれはまた確かに与えられている賜物を「軽んじること」になるのだと思います。
どんなに足りなくても、不十分でも、また自分の伝道活動が実を結ぶことが少なく見えても、教会の活動が前進していないように見えても、御言葉の宣教にとどまり続けることが、イエスさまのみこころなのです。またそのようなこの世的に見て、弱く貧しいものをイエスさまは召してくださったのです。
昨日から雪となりました。昨日の午後には兄弟と娘さんとお孫さんが雪解けに来てくださいました。
今日、明日は穏やかな日となるそうです。