主イエスが病の時に床を用意してくださり

静まりの時 2021年9月18日(土)

主イエスが病の時に床を用意してくださり、最後の厳かな時に私たちの傍らに立ってくださるのを、もし信仰の目をもってしっかりと見つめることができれば、私たちは鉄の門を安全に通り過ぎることができるのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、368頁f

今日の聖句(下記)。「この幕屋」「地上の住みか」、すなわちこの今生かされている肉体に生きている状態が「重荷を負ってうめいている」ことであるとパウロは語ります。そのようにうめいているのは、はやく地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではない、つまり死んで天国に行きたいから今生きていることにうめいているのではない、といいます。
うめいているのは「死ぬはずものが命に飲み込まれてしまうために」、そうして「天から与えられる住みかを上に着たい」からうめいているのである、といいます。
キリスト者が、地上に生きる中で経験するうめきは、はやくそこから自由になりたいからではなく、その現実の「上に」天から与えられる住みかを「着たい」と願っているからである、というのです。
パウロの語る「この幕屋」「地上の住みか」を、この肉体と考えることが第一義的な理解だと思いますが、上記のように考えると、さらには肉体を取り巻く世界、肉体が置かれている社会、今生かされている文化や地上のさまざまな事柄をもあてはめてよいかもしれません。キリスト者として信仰に生きようとするところで、さまざまな「うめき」を経験するとすれば、そのうめきは、そこから逃れたいと願ううめきではなく、そこが「命に飲み込まれてしまう」「天から与えられる住みかを上に着たい」といううめきである、ということでしょう。このようなうめきに生きることがキリスト者として生きるということなのでしょう。愛のないところから逃げるのではなく、そこが愛に包まれるために、また平和のないところに平和を築くために「うめいている」、それがキリスト者であるということでしょう。自分の力ではできないのですが、ともにいてくださるご聖霊さまのお力と導きの中で、キリスト者はみなそのように生きるように召されています。
教会は、うめきを与える世界から逃れるところであるとともに、うめきを与える世界に遣わされるために新しい力をいただくところでもあります。

台風が近づいていて被害が気になるところです。現在放映中の朝ドラと実際の気象放送が重なり、いつもとは違った気象情報の見方をすることになっていますが、少しでも被害がないことを祈ります。
昨日は、天候もあって歩きに出ることができず、室内で自転車を少し乗るということになりました。毎朝体重を測りますが、今朝は少し(約300g)ほど多かったです。一週間で2キロほど増えて、足に顕著なむくみが出るようになると、即受診してください、と言われているのですが、まあだじょうぶでしょう。リハビリの先生は、筋肉がついて体重が増えるのは大丈夫ですからね、といっておられました。
体重が増えると心臓に負担をかけます。心臓に負担がかかると血液の循環がうまくいかなくなり全身に水分がたまるようになります。それが体重の増加によって発見できるということです。で、毎日体重を測るのです。
そういうことで水分調整は大切なことで、入院中は1リットルが一日のお茶などの水分量でした。ただ退院後は特に指導されていません。しかし自分としてはこれを守ろうしています。そんなに苦ではありません。ただ自分がどれだけ水分を取ったのかを管理するのはなかなか難しく、逆に水分量が少ないということも起こります。それで350ミリリットルの水筒3本を1日で飲むということにしています。あいだにジュースやコーヒーを飲んでしまうと、その分もこれで調整しやすくなります。

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今日は備えの日。良い備えの日のいちにちでありますように。

「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(2コリント5・4)