静まりの時 2021年9月17日(金)
この貧しい体は救い主、イエス・キリストの栄光ある体と同じように変えられます。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、366頁f
「地上の住みか」とはこの肉体のことであり、「天にある永遠の住みか」とは、永遠のいのちのことでしょう。今生かされているこの肉体はやがて滅びます。しかし主を信じる者は、すべて天にある永遠の住みかが約束されています。肉体が滅びて、永遠のいのちに移されること、そのことを聖書は「変えられる」と語ります。
このことは一見、今生かされている肉体が単なる入れ物であって、大事なものではない、といった印象を与えますが、聖書は、この肉体も大切なものである、と語ります。実際には肉体は滅びてしまうものですが、それを変えられるという言葉をもって語るのは、この肉体の弱さを受け容れつつ、それを大切にしながら、やがての「栄光のからだ」を待ち望むことを語るからではないかと思います。ですからキリスト教会は、遺体も忌み嫌うものとしてではなく、その人を生かしてきた神さまの創造の御業として大切に扱います。
病を得て、肉体の弱さと大切さを痛感します。そしてやがての栄光のからだへのあこがれ、期待、希望を確かにさせられます。体力に自信のあったときは、肉体を過度に気遣う人のことを理解できていなかったと思います。理解できないまま、理解できていないということも知らないまま人生を送っていたと思います。今少し教えられています。
昨日は退院後2回目の診察があり、採血、心電図、レントゲンとひととおりの検査と主治医からのお話しがありました。聞いておこうと思うことをメモして、この時とばかりに聞くのですが、いずれもあたたかく励ましに満ちた言葉を語ってくださいます。自動車の運転もOKなのですが、県内までにしてくださいね、と言われたり、この辺に圧迫感があるのですが、と問うと、そこはお腹ですね、と答えられたり・・・。自転車に乗ると振動するのですが、それでステントが外れたり心臓に悪影響を及ぼしたりといったことはないでしょうか、と問うと、全く大丈夫です、と。塩分や脂分、水分はやはりきっちりとやっていかないといけないですよね、の問いには、まあ二日ほどの中で平均化されていれば大丈夫です。たまに王将に行っていただいてもいいですよ。ただし3人前とかはやめてくださいね、と答え。退院後「心不全手帳」というのをいただき、毎日血圧やその他いろいろなことを記録しているのですが、それを見ていただいたり。なかなか几帳面ですね、文字を見ているとわかります、とお褒めの言葉をいただきました。一日の歩いた歩数も欄外にメモしているのですが、この数字は何でしょう、なにか聞いてはいけない暗号のようなものでしょうか、と言われ、万歩計の歩数ですと説明して、後ろに立っておられた看護師さんともども大笑いとなりました。この主治医でよかったな、とあらためて感謝しました。
毎食後にいくつもの薬を服用するのですが、朝食後が心臓関係、夕食後がコレステロールコントロールという感じで、これに加えて3食欠かさずのむものに「マグミット」という排便を促す錠剤があります。これは心筋梗塞をやったものには「力(りき)む」ということにリスクがあるので、排便時に力まないようにするための薬とのことでした。おかげさまで毎日快便です。(変な話ですみません。)
これのせいかわかりませんが、ガス(おなら)がよく出ます。
夕刻に妻と一緒に散歩に出ます。だいたい二千五百歩ほどを30分かけて歩くようにしていますが、この時もよくガスが出るのです。心筋梗塞経験者が旨としていることは「がまんをしない」ということですから、妻と並んで歩きつつおならが出ます。
「やめとき~」と妻がいいます。私は「大丈夫。どっちが こいたかわからないから~」と答えると「それが かなんにゃ~」といわれました。
心臓リハビリテーションの一環としてのウォーキングは、常に有酸素運動であることが大切で、有酸素運動にし続けるためには、楽しい会話をしながらウォーキングをする、ということだそうです。ばかばかしい会話をし続けながら、散歩に励んでいます。昨日はそば畑を目指して歩きましたが、ちょっと距離がありすぎて、一歩手前で引き返してきました。無理は禁物です。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(2コリント5・1)