より純粋な静けさと全き喜び

静まりの時 2021年9月14日(火)

どんな人も鋭い肉体的痛み、あるいは深い失望落胆によって、主イエスに対して魂が全く無力感を覚えることがあります。そのため、私たちは自分の力だけで戦うことをあきらめ、かえって主イエスのご意志に自らをゆだねるようになります。その結果、これまで経験したことのないより深い、より純粋な静けさと全き喜び、そして、私たちの心に幸福感が与えられるようになるのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、363頁f

神さまの栄光が現されるということは、神さまの存在感が明らかになることである、と昨日は考えました。では神さまの存在感が明らかになるというのは、さらに具体的にどういったことでしょうか。目の覚めるような奇蹟が行われるということでしょうか。おおよそ科学では説明のつかないような不思議なことが行われるということでしょうか。
今日のスポルジョンの言葉では、なによりも自分自身が変えられる、ということである、ということでしょう。自分自身を神さまのご意志にゆだねること、それこそ、神さまの存在感が明らかになる瞬間である、ということでしょう。
そもそもこの世界の中で最も変えがたいものは自分自身の心であるということです。牧師をしていると多くの人たちの回心に出会います。それは素晴らしいことであり、すばらしい瞬間に立ち会うことです。しかしそれと同時にどんなに長い信仰者であっても、生まれ持った自己中心の性質を引きずっている、これまた多くの人たちに出会います。神さまを信じて180度変えられた、と証ししつつ、その信仰生活を見ていると、ちっとも自己中心から変えられていない、事あるごとに自分の思い、自分の願い通りにまわりを、あるいは自分の人生をコントロールしよう、支配しようとする言動が出てくる。それは誰彼のことではなく、誰よりも自分自身の中にそういう性質を見る。そういう時に、ああこのためにイエスさまは十字架に架かってくださったのだ、とあらためて得心するのです。
ですから教会生活の中で、神さまの栄光が現された、という時には、そのような度し難い自分自身の心が変えられました、という「証し」、その証しの言葉を聞く時に、ああ神さまは本当に生きて働いておられるのだな、と感動します。病のいやし、不可能が可能となることも素晴らしい証しの言葉ですが、そのようなことよりも比べものにならない感動があります。伝道者として召された者としては、そのような感動に生きる教会にお仕えしたいものでしょう。

今日は本部理事会がオンラインで行われます。また宣教師会とのパートナーシップ委員会が行われます。妻は本部の除草作業にむかいます。それぞれ良い一日でありますように。昨日はポポーという不思議な果物をいただきました。ビタミンCが豊富だそうです。息子がジャガイモとたらのおやき?、私めがポークソテーマスタードソースというのにチャレンジしました。

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(2コリント4・17)

PXL_20210913_095532177PXL_20210913_100126381PXL_20210913_093654712