愛に満ちた場、思慮分別の場

私たち聖徒は確かな立場を与えられ、そこで守られています。しかもそこは栄光あふれる場所です。・・・そこは愛に満ちた場です。そして、そこは思慮分別の場です。なぜなら、私たちは、今は、自分の手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に向かって進んでいるからです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、321頁f

2021年8月15日(日)

救われるということは、愛に満ちた場に置かれることであり、そこは「思慮分別の場」である、といいます。罪が赦されたということは、思慮分別を生きる者とされたということなのです。赦されたということを誤解して、何をしてもよいのだと、してしまうならば、それは聖書の語る救いに生きているとは言えないということでしょう。思慮分別に生きるということは、共に生きる、という道をひらくということです。救いに生きるということは、個人主義に生きることを終わりにするということでもあるのです。

「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10・29)