キリスト者が富むことを許される場合、その恵まれた境遇の中にも、信仰の試みが隠されていることを忘れてはなりません! これは最も厳しい摂理的試みの一つです。ある人は貧しさのために人生を誤ります。しかし、私は富のために人生を誤った人を多く見てきました。
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暗闇の中にいることは(完全な暗闇の中ですが)、信仰にとってはかえって幸いなことです。そのとき、何事も肉の目によって見ているのではなく、まさしく信仰の目によって見ていることを確信できるからです。C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、165頁f
2021年4月25日(日)
新共同訳で「慈善」と訳されている言葉は、新改訳では「義のわざ」、共同訳2018では「正義」と訳されています。何があわれみいつくしむことなのか、何が人のために助けになるのか、私たちには完全にはわからないのです。神さまだけがご存じなのです。ですから私たちが「慈善」に生きようとするならば、「義のわざ」「正義」、すなわち「義」に生きることが大切なのです。義とは神さまとの関係のことです。神さまとの正しい関係の中に生きるとき、私たちは本当の慈善に生きる可能性をいただきます。
「怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。」(箴言11・4)