シメオンの歌は、その後の教会で早くから歌われた。教皇グレゴリオスの時代には就寝の祈りとされた。改革者カルヴァンは聖餐を祝った礼拝の終わりに歌うようにした。シメオンは、しばしば老人であったとされる。もう死なせてくださって結構です、と歌っているからである。しかし、そう決めつけてよいのであろうか。教会では若者でも老人でも、一夜の眠りにつくときに、あるいは、聖餐の恵みを受けたときに、これを歌ったのである。「私はこの目で救いを見た」。永遠のいのちの救いを見た。それは主の日の礼拝において知る恵みであり、また日々の生活においても知る恵みである。そのとき、私たちは、悲壮感を伴ってではなく、いつでも死ねる。いや、自分で死ぬのではなく、死なせていただく。肉体の死もいのちも主イエスの父なる神の手から受ける。主イエスを救いとして見せてくださった神から来るのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、386頁
2020年12月31日(木)
主イエスさまを信じて、その救いにあずかった者は、死もいのちも三位一体の神さまから受けるのです。ですから過去も、現在も、そして将来も平安に満ちています。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ2・29)