西欧では、これは古代のアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸を代表する王たちであったと考えられた。新共同訳は「占星術の学者」とした。いささか夢を失わせるようであるが、これが今のところ正しい理解でもあるようである。三人という数は、彼らが持参した贈り物の数から推測する。・・・これらは占星術を行う者が不可欠とした道具類ではなかったかという解釈を読んで心を惹かれたことがある。肌身離さず最も大切にしていたものを手放した。三人が遥々(はるばる)東方から主イエスを訪ねてくることができたのは、占星術を知っていて星を読めたからである。だが、それによって主イエスにお会いしたとき、占いを捨てた。主イエス・キリストを信じて生きることと、占いを頼ることとは両立しない。神の救いの摂理を信頼して生きることと、運命を読むことに心を奪われることとは両立しない。むしろこれをきっぱり捨てる。自分の星座が何であるかなどということに関心を持つのは、たとえ軽い気持ちであっても間違っている。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、378頁
2020年12月23日(水)
占いというのは、とにかく自己矛盾しているものです。未来を読むということは、未来が「定まっている」ということを前提としています。しかし未来を読んで、もし困ったことが起こると予測されるならばその道を避けるために何かの工作をしようとする、その行動が物語っているのは、未来は「定まっていない」ということを前提としています。いったい未来は定まっているのかいないのか。何なのでしょう。
いずれにせよ、主イエスさまを信じて生きるということは、上記のような生き方から解放されることです。占いやそれに準ずるものに縛られて生きることから自由にされて、本当に感謝です。毎日を、素晴らしい一日として生きることができます。
「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2・11)