み言葉を聴いて行うことこそ、あなたがたが自分を欺くことなく、最も自分に忠実な道なのだと言う。自分を欺き、抑圧して、神の言葉に、神の律法に生きるのではない。神の律法は自由をもたらす。私を最も私らしく生かすもの! この律法の鏡に映る神の恵みに生かされる自分のほんとうの、しあわせな姿を見続けて生きるようにしよう!
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、348頁
2020年11月25日(水)
行いによるのではなく、信仰によるのだ、ということが強調されてきた中で、すこし誤解が教会の中に生まれてしまったのだと思います。本来行いと信仰は対立するものではありません。健やかな信仰は当然のように行いを伴います。問題は順序なのかもしれません。あるいは土台をどちらに置くかと言ことかもしれません。
その行いとは、なによりも律法のことでしょう。いわゆる律法主義ではありませんが、信仰者は健やかに律法に生きる者となるのです。そこに「自分を欺くことなく、最も自分に忠実な道」が生まれるのです。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブ1・22-25)