神を見出し、礼拝することなくして癒されることのない渇きがある

自分が幾人夫を変えても満たされていない事実を指摘されたサマリアの女は、そこですぐに礼拝の話を始める。主イエスが預言者、つまり、神の言葉を語る方だと悟ったからである。・・・男を変えては、ただ性的な満足を求めていたようであるが、神を見出し、礼拝することなくして癒されることのない渇きがあることを知っていた。そのことをめぐってユダヤ人との間に対立があることを悲しんでいた。主イエスは言われる。神は私の父、そしてあなたの父、いかなるところにおいても礼拝し得る方、あなたの渇きを癒してくださる方!

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、330頁

2020年11月7日(土)

サマリアの女は、その罪の中で渇いていました。そして罪によってさらに渇いていました。その渇きを真実に癒すものは、神さまご自身であり、神さまへの礼拝であることを知っていたのでしょう。礼拝は場所を選ばない、どこででもできる、それがまことの神であり、父と呼ぶことのできるお方である、との主の言葉は、もう渇かなくてもよい人生への招きの言葉だったでしょう。

「『・・・あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・』」(ヨハネ4・18-21)